Top » 信濃の国
『信濃の国』は、明治31年(1898)に、信濃教育会の委嘱により、長野県師範学校(現信州大学教育学部)の教諭であった浅井冽(松本市北深志出身)が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲した。
この最初の曲は「信濃教育雑誌」に掲載されたが、人気はなくあまり歌われることはなかった。
依田の後任であった北村季晴は、この歌詞に感銘を受け、明治33年(1900)新しく曲をつけた。軽快なメロデイーはたちまち師範学校の生徒に好まれ、寄宿舎の内外で歌われた。
師範学校から巣立った若き教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えた。各校の運動会では曲にあわせたダンスが披露されたことから大人にも知られ、この歌は戦前から長野県内に普く定着した。
1.
信濃の国は 十州に
境連ぬる 国にして
聳ゆる山は いや高く
流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
四つの平は 肥沃の地
海こそなけれ 物さわに
万ず足らわぬ 事ぞなき
2.
四方に聳ゆる 山々は
御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に 活火山
いずれも国の 鎮めなり
流れ淀まず ゆく水は
北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
これまた国の 固めなり
3.
木曽の谷には 真木茂り
諏訪の湖には 魚多
し 民のかせぎも 豊かにて
五穀の実らぬ 里やある
しかのみならず 桑とりて
蚕飼いの業の 打ちひらけ
細きよすがも 軽からぬ
国の命を 繋ぐなり
4.
尋ねまほしき 園原や
旅のやどりの 寝覚めの床
木曾の棧 かけし世も
心して行け 久米路橋
くる人多き 筑摩の湯
月の名に立つ 姨捨山
しるき名所と 風雅士が
詩歌に詠てぞ 伝えたる
5.
旭将軍 義仲も
仁科の五郎 信盛も
春台 太宰先生も
象山 佐久間先生も
皆此の国の 人にして
文武の誉 たぐいなく
山と聳えて 世に仰ぎ
川と流れて 名は尽ず
6.
吾妻はやとし 日本武
嘆き給いし 碓氷山
穿つ隧道 二十六
夢にもこゆる 汽車の道
みち一筋に 学びなば
昔の人にや 劣るべき
古来山河の 秀でたる
国は偉人の ある習い
Copyright (C) 2006 the Shinanomainichi Matsumoto Monopoly Co,.ltd. All Rights Reserved.
大正九年八月、松本高等学校本館が竣工し、それにともなって周辺道路が整備され、旧松本商業学校跡から中林橋までを若松町と名付けた。町名の由来は、松ば竹・梅あるいは鶴とともにめでたい取り合わせとされ、また松本の松にも通じるので、松の若葉のようにみずみずしく発展することを願って命名された。
市道
【標識所在地】 埋橋2-1584-11
六九(ろっく)町。城内武家屋敷の一町名。
惣堀の外側、大手門前から女鳥羽川北側に東西にのびる町であった。
「信府統記」には「南門ノ外川端ニ厩ヲ造る、是ヲ外馬屋ト云、又六九馬屋トモ云、五十四疋立ナルガ故ナリ」と、この町名の由来が述べられている。
【標識所在地】 大手2-2
両島の地名は、この地が上島、下島の二地域からなっていたことによる。両島には足手送りという厄除け行事が伝えられている。江戸時代初期にはアカハラ(赤痢)が蔓延したので、村人は大きな足半を作って、村の入口四の所の高い木につるし、大男がいるように見せかけて疫病神を追い払ったという。
西部体育館前
【標識所在地】 両島79-イ
この地域は明治時代には桑畑が多く、そこに四つの家があったところから四ツ家村と呼ばれた。明治四十七年農林省蚕業試験場松本出張所の開設・・・ 四ツ家と改められ、昭和八年には四ツ山町、四ツ谷東区に分離した。
県道
【標識所在地】 県1
大正九年八月、松本高等学校本館が竣工し、これにともなって本町角から鍋屋小路をへて松高正門までの道路が拡幅され、宮村から県町までが弥生町と名づけられ、大正十一年十一月の松本市議会で承認された。町名の由来は、道路の開通が陽春の候であったのに因むという。
県道
【標識所在地】 中央3-1169-1
往古、この辺りを泥町といった。
天正十年、旧地を回復した小笠原貞慶が、天正十三年から十五年にかけて、宿城の町割りを行い、この地に侍屋敷を建てた。
柳の木が多くあったので、柳町と名づけた。
大柳町と呼ばれるようになったのは、明治以後のことである。
【標識所在地】 丸の内7
安原(やすはら)町。この辺りは古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていた。
小笠原貞慶が天正十年に深志城を回復し、深志の地を松本と改め、 同十三年には城下町の町割りを行った。
善光寺通に沿って造られたこの町人町は、「安佐端野原」の前後二文字をとって安原町と名付けられた。
【標識所在地】 北深志2-4-1
古代、信濃国府が筑摩郡にあった時代の集落の中心部がこの付近であったという言い伝えから、元町の町名がつけられたといわれる。しかし、国府の位置はまだわかっていない。
松本砂防事務所東口
【標識所在地】 元町1-8-28
明治以後の市政の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。元原町もそのひとつである。その名の由来は、古くから元原と呼んでいたことによる。原名は歌枕名所の一浅葉野に関係するといわれている。
元原公民館前
【標識所在地】 桐1-4-58
この町は大正の初期、松本城天守閣より南向こうを眺めた時、薄川の手前を東西に流れる長沢川南沿いに、四方を川に囲まれた地形が島のように見えた事から、向島と命名された。当時の長沢川は現在の川幅よりも約三倍ほど広く、水は一面に漂い、川面にはアヒルなど泳いでいた。
共有地
【標識所在地】 本庄1-897
町人町中町の枝町の一町名。
南端には宮村大名神があり、信濃守護小笠原貞宗が井川に居館を構えた頃の 暦応年間(一三三八~四二)に守護神として宮村の地に祀ったという伝承が ある。地名の起こりもこの頃といわれる。
江戸時代の初めに町割りが行われ、その後奉公人や職人などが多く集住した。
【標識所在地】 中央3-7-3
宮渕の地名は、集落の北、城山陸陵の先端に勢伊多賀神社が祀られ、その南は大門沢、田川、女鳥羽川などが合流する低湿地地帯であり、山際は淵をなしていたことに由来する。この地域は二つ塚古墳などもあり、古くから人が住んでいたことがうかがえる。
宮渕浄化センター
【標識所在地】 宮渕本村8-1
この地域は、近世には大部分が蟻ヶ崎村に属していたが、明治以降、旧城下町の周辺に新しい町がつくられた。宮崎町もその一つで、隣接する宮渕と蟻ヶ崎の両方から一字をあててこの名がつけられた。
白板地区福祉広場
【標識所在地】 城西1-2368-6
松本市が市政した明治四十年頃までは、この辺り一帯は家並みも続かない新開地であった。大正三年四月に区長制がしかれ、この際に南新町と命名された。町名の由来は女鳥羽川以北の北深志の新町(江戸時代の武家屋敷町)に対して川南の新町にあたることによる。
逢新神社
【標識所在地】 本庄1-3687-イ
明治以後の市勢の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。南新道町もそのひとつである。その名の由来は、西堀と今町を南側で結ぶ新しい道の意と考えられる。
【標識所在地】 大手2-4-2
善光寺街道に沿う本町は松本城下の中心「親町三町」の一つで、 本手橋(現千歳橋)から袖留橋(現緑橋)までの一丁目から五丁目までをいう。
発祥は松本城築城の頃とされ、各種の問屋が軒を連ねる松本城下の荷物の集散地であり、経済の中心であった。
【標識所在地】 中央2-7-5
この地域は、近世は蟻ヶ崎村の中にあった。町名の由来は真言宗の古寺放光寺があったからで、蟻ヶ崎村が放光寺村と呼ばれたこともあった。放光寺は明治の廃仏後曹洞宗として復興し、松本地方でも最古に属する県宝の「放光寺水造十一面観音立像」(秘仏)を有する。
市道1010号線
【標識所在地】 城山1042-3
明治三十五年に篠ノ井線が松本まで開通し、松本駅と糸魚川街道の今町に通じる道がつくられた。その開道に功績のあった犬飼久左衛門・同孝吉父子の屋号「分銅屋」にちなんで分銅町と付けられた。
県道平田新橋線
【標識所在地】 中央1-22-22
水野忠直の時代(慶安のころ)に造られた城外侍屋敷で、江戸時代の終わりには 六十石取前後の武士が住んでいた。
この町は南が入り口で、中ほどは鍵の手に曲がり、北端は行き止まりという袋小路になっていたので形にちなんで袋町と呼ばれた。
防備のために工夫された町割りである。
【標識所在地】 城東2-7-2
明治二十三年片倉組が、当時水田であった清水の地に松本最初の製糸工場を開設。その後、日本の製糸業が日の出の勢いで世界に進出していくのにともなって、同工場も明治三十三年は片倉製糸紡績株式会社へと規模を拡大し、隆盛に向かった。町名の由来は、日の出の勢いで発展する片倉にあやかり、また松本市の東に位置し日の出を拝する町という意味を込めて日ノ出町と命名された。
【標識所在地】 中央4-9-43
善光寺街道に沿う東町は、松本城下の中心。
親三町の一つで、町名は城の東側に位置することに由来するという。
「松本大名往来」には宿場町として栄えた様子が、「東町ハ諸国之旅人木銭宿、旅籠屋商人定飛脚之泊宿」と記されている。
【標識所在地】 城東2-1-17
東ノ(ひがしの)丁。城外武家屋敷の一町名。
天白町、中ノ町の東に位置するため、この町名がついたといわれる。
「信府統記」には「南北百六拾五間余、家数西ヶ輪三拾一軒、東ヶ輪三拾軒」 とある。
享保十六年(一七三一)の絵図には、間口六間、奥行七間程度の町割りが 示されており、今日でもその名残をとどめている。
東ノ町とも書く。
【標識所在地】 旭2-2-10
幅(巾)上。巾上の名は、慶安四年(一六五一)の検地帳に見られ、近世庄内村の西半分を占めていた。幅(巾)は川の土砂のたい積や侵食により作られた階段状の地形といわれ、巾上はかつて田川によってつくられ、その上に位置する集落であることから起こった名称といわれる。
無籍地
【標識所在地】 巾上5-44
城外武家屋敷の一町名。
西町と徒士町の中間に位置し、町の形が旗指物の形に似ているので、この名がつけられたという。
【標識所在地】 開智3-1-27
博労(はくろう)町。博労町は松本城下の南で入り口に位置し、枝町十町の一つで、 本町に属していた。
本町とは袖留橋(現柳橋)を境とし、南の端には十王堂が置かれていた。
古くは貢馬を集めて置いた所で馬町とか馬喰町といわれていた。
元禄六年(一六九三)、博労町に改められた。
【標識所在地】 本庄1-3-6
萩(はぎ)町。この通りは善光寺道と呼ばれ、旅人や物資を運ぶ中馬の行き交う道であった。
道の左右に萩を植えて垣根とし、侍屋敷を遮ったので、萩町の名がつけられた。
水野忠直が慶安のころに板塀に改めたといわれているが、ゆかしい町の名は今に伝えられている。
【標識所在地】 北深志3-3
城外武家屋敷の一町名。
松本戸田家の祖・康長が元和三年(一六一七)から寛永十年(一六三三)までの 間に、安原町の西に武家屋敷を設けたため、この町名がついたといわれる。
「信府統記」は「西町南北百九拾七余、家数西ヶ輪(西側)二拾七軒、東ヶ輪 (東側)二拾五軒」とある。
【標識所在地】 開智3-2
松本城西側の惣堀の外側南北に置かれた町で、城外武家屋敷の在った所。
町の北端(現:税務署通り)に西の馬出しが設けられ、不開門(あかずのもん)が在った。
【標識所在地】 大手2-8-10
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外に新たに町々が形成されたが、西五町のもその一つである。この町名は、旧城下町の町名である本町五町の西に当たっているのでこの名が付けられた。
市道2016号線
【標識所在地】 深志2-1220
松本市が市制を施行した明治四十年頃までは、この辺り一帯は長沢町と呼ばれていたが、家並みも続かない新開地であった。大正三年四月に区長制がしかれたのを機に長沢町は七区に分けられた。その一つが錦町である。この町名は町の発展を願う町民の思いが込められている。
【標識所在地】 深志3-5-23
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外に新たに町々が形成されたが、西河岸もその一つである。この町名は、旧城下町の本町、博労町から西に、長沢川沿いに形づくられたためこの名が付けられたと推測される。昭和初期にはこの界隈は南部市場といって、食品野菜などとあらゆる物を売る市が日を定めてたっていた。
松本駅前記念公園
【標識所在地】 本庄1-907
中世鎌倉期から戦国期の並柳卿にさかのぼる地名。えどきから明治期にかけては村名となり、現在の町名に至る。かつてこの地は湖がありその水辺に柳が繁茂していたことによりその地名がついたと伝えられる。
並柳公民館
【標識所在地】 並柳3-71-2
町人町・飯田町の南端の角から西へ入る小路名。
「古実連記」には、「鍋屋有之故鍋屋小路」というと、この小路の由来が 述べられている。
鍋屋とは鍋や釜を作る鋳職人の事で、四件の鋳物師屋があったという。
【標識所在地】 中央2-7-21
この地域は、近世は庄内組渚村であった。村の中央には渚城の跡があり、それが地名の由来と考えられる。この城は、中世、応永七年(一四〇〇)に信濃の守護小笠原長秀が大塔合戦に敗北後、館を築き隠棲したと伝えられている。天文十一年(一五四二)当地に小笠原長時により常徳寺が開創された。
【標識所在地】 渚2-4-3
城下町親町の一つで、「中町ハ外町之為中故中町ト号ス」(故実伝連記)とあり、善光寺街道の道沿いであった。
犀川通船開通(天保三年・一八三二年)の頃は、船も遡行していたので、塩・肴問屋が軒を連ねていた。
【標識所在地】 中央3-4-21
明治以後の市勢を発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。中原町もそのひとつである。その名の由来は、旧集落名による。原名は歌枕名所の「浅葉野」に関係するといわれている。
駐車場
【標識所在地】 桐2-2-25
中林は、江戸期から明治八年筑摩村の一部となるまで村として続いた。 古く山辺の林部落と筑摩の中間にあったのでこの名がついたが、薄川の氾らんをさけてこの地へ移転したものと伝えられる。
中林神社
【標識所在地】 筑摩2-3408-5
城外武家屋敷の一町名。
萩町の東に萩町に並行して東へ天白町、中ノ町、東ノ町と三筋の通りがあった。
中ノ町にはその真中に寛永十九年(一六四二)に命名されたという。
「信府統記」には「中ノ町南北百六拾六間余、家数西ヶ輪二拾軒東ヶ輪三拾一 軒、此町東西小路二ヶ所アリ」とある。
中の町とも書く。
【標識所在地】 旭2-2-8
この地域は、平安時代から鎌倉時代にかけて置かれていた。棒中の中心地域にあたり、棒中村(条)と呼ばれていた。戦後の宅地化が進むまでは、一帯は整然と区画された水田が広がり、条里的情景もしのばれ、歴史的にも由緒ある景観をとどめていた。地名の由来も棒庄中村の地名を今日に伝える由緒あるものです。
ナカツタヤ駐車場前
【標識所在地】 中条10-1
深志神社の南、長沢川にそったあたりは酒屋とよばれていたが、明治四十年市町村制施行に伴なって、筑摩村の一部が松本市に合併したのを機に、長沢区とした。その後、博労町東裏に、大正七年に筑摩部が開校、同八年に長野県工業試験所が開業した際に、町割が行われ、常磐町・錦町・梅ケ枝町・栄町など七区ができ、長沢町はその一地域の町名となった。
駐車場
【標識所在地】 深志3-1025-3
善光寺街道沿いのこの辺り一帯は、松本村大字出川字豊田であった。大正十四年の旧松本村合併の際に、豊田町として誕生した。 町名の由来は古名「樋田」から来ているという。「樋田」と呼ばれた場所は、樋を使用して堰から水を引く田を指した。明治以後、好字をあてて「豊田」とした。
堀内石材店展示場
【標識所在地】 庄内3-1-14
明治以後の市勢の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。岡宮神社の宮前の豊倉町もそのひとつで、町名の由来は、吉字を選んで命令したものと伝えられる。
女鳥羽公園
【標識所在地】 女鳥羽2-2497-4
この地域は、近世に蟻ヶ崎村、白板村に属していた。大正の始め、信濃鉄道(現大糸線)の開通に合わせて市街地へのアクセス道路として開通された。町名の由来は、白板、今町、城西町と三巴になっていたことによる。
市道1517号線
【標識所在地】 城西1-103-5
この小路は総堀の土手に沿っていたので、土手小路(どてこうじ)といわれた。
大名町の南端にあった大手門際より東へ六十間余、西へ六十九間余あり、東は辰巳御殿、西は土井尻へ通していた。
大手南門から西の小路には、北側には武家屋敷三軒があり、一〇〇石前後の武士が住んでいた。
【標識所在地】 大手2-3-10
松本市が市政を施行した明治四十年頃までは、この辺り一帯は長沢町とよばれていたが、家並みも続かない新開地であった。大正三年四月に区長制がしかれたのを機に長沢町は七区に分けられた。その際、この地は、松本の松に囲んで常に変わらぬ常盤の松をイメージして永久不変を願って常磐町と命名された。
【標識所在地】 深志3-1046-7
都河岸の由来は定かではないが、国府亘理神社(今町)の神社名から想像して、この地を筑摩郡にあった信濃国府と、延喜の東道「亘理の厩」と推定し、さらに遠く都と結ぶ渡し場(亘場)と位置づけて都河岸と呼んだのではなかろうか。
河川植込
【標識所在地】 大手1-2
堂(どう)町。城外武家屋敷の一町名。
戸田氏の菩提寺のひとつ、妙光寺の御堂がこの地にあったので、この町名がついたといわれる。
明治維新の際、古いしきたりを改めようと、「御」のついた町名から「御」をとり、堂町となったという。
【標識所在地】 北深志2-3
同心(どうしん)町。城外武家屋敷の一町名。
町名はここに同心番所が置かれていた事に由来するという。
町は善光寺街道に沿った萩町と堂町、西町を結ぶ三筋の小路から 成り立っていた。
【標識所在地】 北深志3-7-12
土井尻(どいじり)町。松本城三の丸の西南部に在り、城郭の外を巡る土居尻であったことから名付けられた。
西南に低く、堀の水は北から西南に潤し、中流武士の屋敷が並んでいた。
【標識所在地】 大手2-8-21
天白(てんぱく)町。この町にある天白神社には、天正元年に松本城に入った石川数正が、 城の鬼門よけとして出身地・岡崎より勧請したという伝承がある。
水野氏の時代になって、ここに城外侍屋敷が造られると、この天白神社にちなんで町名がつけられたという。
【標識所在地】 旭2-7
町人町・本町五丁目から東へ入る一町名。
本町から天神の社が見通せるので、天神小路と呼ばれた。
なお、ここには小笠原秀政時代に京都右近に模した天神馬場が設けられていた。
【標識所在地】 深志2-4-1
出居番(でいばん)町。出居番とは口々番所や筏番所へ交代で詰番にでる職のことで、 水野氏の時代におかれたこの町は、それらの任務にあたる武士が居住していた ところである。
【標識所在地】 城東1-1-12
古くは束間々豆加万などと書かれていたが、和銅六年(713)好学令という朝廷の命令により筑摩となった。明治四年筑摩県が置かれてから、「ちくま」となり、古代からの呼称「つかま」を伝えているのはこの地のみである。筑摩東は昭和三十年頃神社東の地域に生まれる。
筑摩神社遊園地
【標識所在地】 筑摩2-2968-2
長称寺(ちょうしょうじ)小路。和泉町から分岐する二つの小路の一つ。
和泉町より長称寺が見通せるのでこの名がつけられた。
長称寺は親鸞上人ゆかりの寺で、山号を木曽義仲院といい、 城下町の東に配置され、城砦的な性格を併せ持った寺である。
【標識所在地】 女鳥羽1-9-8
城外武家屋敷の一町名。
この辺りはかつて大門沢の左岸の低湿地で水田のあったところに 慶安年間(一六四八~十六五二)、水野氏により武家屋敷が設けられたので、この町名がついたといわれる。
幕末の家数は東側十六軒西側二十一軒で、百石前後の武士の住む町であった。
【標識所在地】 北深志2-2-3
大正十一年に長沢町が七区に分かれ、七町が成立した際に、水から所有する土地を提供して町づくりに貢献した竹内愛人氏に因み、竹内家の中輿の祖である氏の祖父の平米氏の姓名の各一字を取って、竹平町とした。また同じころ成立した常磐町が若松町の松、梅ケ枝町の梅に竹が揃うと、松竹梅の縁起に因むめでたい町名になることも加味されている。
【標識所在地】 本庄2-6-7
この地域は、寛永年間(一六三三年ころ)に鎌田村から分村し、明治のはじめまで高宮新田村といった。地名の由来は、この地が出川町に祀られている多賀神社(多賀宮)の入口に当たることから、その社名によるといわれている。
県道松本空港線
【標識所在地】 高宮中93-4
鷹匠(たかじょう)町。城外武家屋敷の一町名。
総堀の外、松本城西北に位置し、慶安年間(一六四八~十六五二)に町割りが行われた。
「信府統記」には「鷹匠町東西百三間余、北ヶ輪八軒但シ南ノ端鍛冶細工所アリ」 と、町の様子が述べられている。
後の戸田時代に鷹匠餌差が置かれてこの町名がついたという。
【標識所在地】 開智1-2-23
水野氏時代までは大手南門通りと呼んでいた。
女鳥羽川から北側の三の丸は、上級の武士が居住する地域であり、なかでもこの通りの両側は年寄や組頭などの高禄の藩士の居住する所だった ので、この名がつけられた。
【標識所在地】 大手2-3-10
征矢野の地名は、古代に信濃の国から朝廷に梓弓が献上されたが、その弓に用いられた征討の矢(征矢)がこの地でつくられたという伝承による。中世には信濃守護小笠原氏の住館が井川にあり、この辺りにも町割があったといわれる。近世には庄内組征矢野村とよばれた。
征矢野公民館
【標識所在地】 征矢野2-5338-1
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外に新たに町々が形成されたが、西博町もその一つである。この町名は、旧城下町の町名である博労町の西側に当たっているのでこの名がつけられた。
県道兎川寺鎌田線
【標識所在地】 本庄1-1090
この地域は、明治時代になって、川の名前に因んで長沢町といったが、大正三年四月に区長制がしかれると、長沢町は七区に分けられた。町名の由来は、町の形が西方が狭く東方に行くに従い扇形に広がっているので、末広の扇に因んで、町の発展の願いを込めて末広町と命名された。
第二地区公民館
【標識所在地】 本庄2-747-1
伊勢町通りの中ほどに神明小路があり、その奥に神明宮が祀られていた。明治三十五年に松本駅が開設され、そこから東へ。市内中心部を結ぶ通りとして神明町がつくられた。町名は神明宮に因む。
神明社
【標識所在地】 中央1-6
明治以後の市政の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。新田町もそのひとつである。明治2年に江戸定府藩士(江戸屋敷詰の武士)の帰国にともない、その屋敷として、新たに田町の西にできたので、新田町と命名された。
城北公民館
【標識所在地】 開智2-3-39
明治三十五年に篠ノ井線が松本まで開通し、松本駅から伊勢町や本町につながる通りとして新伊勢町がつくられた。町名は松本駅から伊勢町に通じる新しい町という意味である。
国道143号
【標識所在地】 深志1-786
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外で新たに町々が形成されたが、新家町もその一つである。 この地域は、江戸時代は小島村の中にあった。大正十四年の旧松本村合併の際に、新家町として誕生した。
新家町公民館
【標識所在地】 庄内1-1-21
寛永十年に越前大野より松本城に入った松平直政は、 三ノ丸北門・北馬出しから北にかけて城外武家屋敷を造った。
最も新しい町であったので新町と名付けられた。
町の北の端には湧水池の深志大池があり、飲用水に用いられ、その流末は総堀に注いでいた。
【標識所在地】 北深志1-3-11
白板の地名は、戦国時代にさかのぼり、開田を意味するという。また松本城天守築造の際、この地を用材とすた白木坂の置き場としたのが、その由来とする説もある。天保三年に開通した犀川通船は、この地を船着場として、明治三十五年の篠ノ井線開通後まで続いた。
【標識所在地】 白板1-3-7
八百年も以前に栄えた棒の庄という庄園のうちというのがこの地名の起こりと考えられる。庄園時代の名残を伝えた地名である。この地名は、江戸時代には薄川の下流域に広がった庄内村に、また庄内村を含む十五ケ村から成る庄内へと引き継がれてきた。
庄内町公民館
【標識所在地】 庄内2-6-47
この地域は近世には大部分が蟻ヶ崎村に属していたが、明治以降、旧城下町の周辺に新しい町がつくられた。城西町もその一つで、松本城の西側にあるので、この名がつけられた。
【標識所在地】 城西1-6-23
生安寺(しょうあんじ)小路。町人町・本町から東へ入る小路。
かつては生安寺(現在は蟻ヶ崎に移転)を見通せることのできる小路であったため、この名がついたといわれる。
また、三月・五月には節供のひな人形を売る店が連ねたので、ひな小路とも呼ばれた。
【標識所在地】 中央2-5-30
歴代城主の発領により、古くより寺町としての様相を呈していたが、 一七三〇年代、既に現町名で二丁八間二五一軒の人家を構え、職工人の町 として栄えた。
主に湧水を利用した紙漉足袋の製造など多く、維新後は県内初めて料芸街として 官許され、伝統は現在に受け継がれている。
【標識所在地】 城東1-3-22
下下(しもした)町。城外武家屋敷の一町名。
足軽町の天白町、中ノ町、東ノ町の南端を東西に結ぶ下町に並行して、 摂政院から東へ新しく足軽町が造られ、 下下町とか表新町と呼ばれるようになった。
「信濃信府」には「東西八拾九間余、家数北ヶ輪拾二軒、南ヶ輪拾四軒」とある。
江戸時代末期には下下町の呼び名が定着した。
【標識所在地】 旭1-7-11
下馬出(しもうまだし)町。東門馬出し部から東町へ抜ける通りで、北門馬出し郭からの通りが上馬出しと呼ばれたのに対して下馬出しと呼ばれた。
【標識所在地】 大手4-11-7
この地は中世のころは市辻と呼ばれ、市が立ち賑わっていた。
いつの頃か清水の湧く辺りから石の地蔵尊が出立したので、 地蔵清水と呼ばれるようになった。
地蔵尊は生安寺にまつられている。
【標識所在地】 丸の内4
町名の由来は、古代、優れた三人の才能ある人物が諸災害を治めた事によるとの説、筑摩郡に国府があったことから、風の祝(台風を収める神職)がこの地にいて、三年ずつで交替したこと、三歳ずつによるとの説、さらに御射(みさ)の神事の地によるとの説がある。三才には天道、地道、人道、天地間の宇宙蔓物の意がある。
若宮八幡社入口
【標識所在地】 筑摩2-2968-2
東町から分岐する六つの小路の一つで、恵光院につきあたる。
町名は塩屋孫兵衛という豪商が居住していたことに由来する。
この小路にあった井戸は底が海底へ通じ、昔より塩を供給する老翁が出現したと の伝説がある。
【標識所在地】 城東1-3-11
この地域は、江戸時代から明治のはじめまで、笹部新田村または笹部村であった。地名の起こりは古代の豪族の姓(かばね)-称号-の一つ雀部(ささきべ)で、笹部と変化したとも伝えられる。
市道5505号線
【標識所在地】 笹部1-817-1
作左衛門(さくざえもん)小路。東町から分岐する六つの小路の一つ。
名主萩原作左衛門がこの小路を開通させた事に因み、 この名がつけられた。
【標識所在地】 城東1-4-7
松本市が市政を施行した明治四十年頃までは、この辺り一体が長沢町とよばれていたが、家並みも続かない新開地であった。大正三年四月に区長制がしかれたのを機に長沢町は七区に分けられた。その一つが栄町である。この町名には待ちの発展を願う町民の願いが込められている。
病院駐車場
【標識所在地】 本庄2-771-4
旧源池小学校から中林橋までの南北に長い町で、大正十一年長沢町から分離して新しくできた町である。 町名は、この地の開発に貢献した石井祐助氏が父親幸正氏に因んでその一字をとり、また地域の人々の末長い「しあわせ」を願う意味も込めて幸町と名付けられた。
駐車場
【標識所在地】 埋橋1-944-1
城内武家屋敷の一町名。
大名町の東側、地蔵清水町と大柳町の南に位置した。
二〇〇石から三〇〇石前後の俸禄の武士の屋敷があり、 北の大柳町に対して小柳町と呼ばれた。
「信府統記」には「小柳町、南北九拾間余家数西ヶ輪四軒東ヶ輪五軒」とある。
【標識所在地】 大手3-4-18
この地域は近世には宮渕村、蟻ヶ崎村に属していた。町名の由来は、水野家の家臣鈴木伊織が「貞享義民騒動」の指導者多田加助の助命の特使として江戸より早馬でこの辺りまで来たが、精つき駒の足が折れ、処刑の時間に間に合わなかった。この駒を祀ったことによると言われている。
認定外道路
【標識所在地】 城西1-181-17
大正三年、この地に大日本一代交配蚕種普及団が設立され、その周辺に町が形成された。町名も蚕にちなんで命名された。また近くには往古から泉があり思●乃神と太玉乃神が祀られていたが、元禄年間に薄川の氾濫で流失した。その後太玉乃神の祠が再興されて、池を「お玉の池」と呼ぶようになった。
祀内
【標識所在地】 中央4-1240-1
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外に新たに町々が形成されたが、五條町もその一つである。 この町名は、西五町に交差し中条に通ずる町ということでこの名がつけられた。
松本駅前記念公園
【標識所在地】 本庄1-907
明治三十五年に篠ノ井線が開通し、松本駅が松本町の玄関になると、それに相応しい町名として、かつてこの地が信濃の国の府中として栄えていたように、松本町の反映を願って国府町と命名された。
市道2326号線
【標識所在地】 中央2-1-1
口張(こうばり)町。武家屋敷の最北端に位置する。
「信府統記」に「同心町北ノかうばり町東西七拾二間余家数南ヶ側七軒北ヶ輪 一軒」とある。
「松本市史」では紅梅町とあることから、当初紅梅の木があって起源となり、 後に今の名に訛ったのではないかと述べられている。
【標識所在地】 北深志3-6-4
小池町は松本城下の枝町十町の一つで中町に属していた。
慶長十八年(一六一三)、城主小笠原秀政が飯田より入部の際に 南半分を奉公人衆の屋敷にした。
その中に小池甚之丞という軍学兵法の達人がいたので、その名を取ったという 説と、この辺りに小さい池があったことに由来するとの説がある。
【標識所在地】 中央2-8-18
ここは中世の頃、信濃守小笠原氏の家臣で、名を玄智の屋敷があった。その屋敷に玄智の号に因む「玄智の井戸」があり、「当国第一の名水」として知られていた。歴代の城主は制令を掲げてこれを保護し、藩主の用をはじめ、城下町の飲み水や、酒造用水にも使われていたので、水源という意味も加味して源池とした。
瑞松寺
【標識所在地】 中央3-1290-1
松本城北側惣堀外騎馬修練が行われていた所から町名になる。
「信府統記」には「北馬場東西百五拾九間余、北家数拾二軒南側堀端ナリ」とあり、東入り口には番所があったと記されている。
【標識所在地】 丸の内9
和泉町から分岐する二つの小路の一つ。
和泉町より大安泉寺の観音堂に通じる道であったので、この名がつけられた。
大安泉寺は真言宗の寺で、観音霊場信濃百番、 三十三番札所めぐりの第一番札所となっており、歴代城主の祈願所であった。
【標識所在地】 城東2-8-12
神田の地名は室町時代にさかのぼる。神田村は戦国期から江戸時代を経て、明治七年中山村の一部になるまで続き、その後昭和十八年に松本市に分離合併した。地名の由来は千鹿頭山の頂上にある千鹿頭神社の神の田によるという説が有力である。
神田公民館入口
【標識所在地】 神田1-757
町人町・東町の枝町の一町名。
和泉町の裏(東)に位置する町で北を上横田町、南を下横田町といった。
町割りが行われた際、女鳥羽川の東岸、横田村から人家を移したので、この町名がついたといわれる。
【標識所在地】 女鳥羽1-9-8
「かま」とは水の湧き出る釜状になった地形をいい、鎌田は湧き水地帯の水田の意味である。かつてこの地には大きな沼があり、龍神が棲んでいて人寄せの時に椀膳を貸してくれるように祈れば、借りられたという伝承があった。この地は中世は井川城の城下町であり、また江戸時代は庄内組鎌田村であった。
【標識所在地】 鎌田1-13-33
明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の内外に新たな町々が形成されたが、金山町もその一つである。 この町名は、火の神様で鍛冶職が崇敬する金山様という社があることによってこの名がつけられた。
市道2057号線
【標識所在地】 県1-1498-4、-5
松本城惣堀の外の武家屋敷地帯で、東側のみ屋敷割りされたことから 町の名がついた。
「信府統記」によれば、「・・・・、片端南北二百二拾四間余・・・・」と家並が続いて いた。
【標識所在地】 丸の内7
町人町・東町の南端から山家組へ通じる枝町名。
「信府統記」には「家数二十七軒、町幅三間。昔ハ紺街トモ云ヒ、中比鍛冶町と 云ヒ、今ハ山家小路ト云フ」とある。
享保年代ころには、山家小路と呼ばれていたが、江戸時代後期には鍛冶町の名称が定着した。
【標識所在地】 大手4-5-6
明治五年の学生発布をうけて、翌同六年女鳥羽川沿いにあり、廃仏毀釈で廃寺となっていた戸田家の菩薩寺全久院の建物を利用して旧開智学校が開校された。明治九年には、この地に文明開化の象徴である擬洋風建築の旧開智学校が建築された。その西側にあった数戸の商家を旧開智学校にちなみ、開智町と称した。
Mウイング南
【標識所在地】 中央1-18-1
明治以後の市政の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。折井町もそのためのひとつである。その名の由来は、この町が、白板町にあった折井氏の所有地に新たに出来たことによる。
再開発住宅敷地内
【標識所在地】 大手1-393-21
武士は職分により住居地が定められていた。
お城の北にあたるこの東西の通りの西側には徒士屋敷が軒を連ねていた。
【標識所在地】 開智2-9-12
餌差(えさし)町。餌差町は城下町の東の出入り口に当り、町の東側には木戸と十王堂が置かれ、 町番が木戸を守っていた。
百姓や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。
町名はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことに由来 するという。
【標識所在地】 大手5-3-9
長沢町から大正八年に開設された長野県工業試験場正門までの道筋にそう町名である。この辺りは菅原道真(菅公)を祭る深志神社の宮本であるので、梅を愛でた道真に因んで梅ケ枝町と命名した。
【標識所在地】 深志3-1023-2
古代の埴(土器)が埋蔵されていたことから、埋埴が埋橋になったという。地名の起こりは古く中世にも埋橋卿があり、また天正検地帳には埋橋村が記載されている。町名はこの埋橋村を継承したものである。
埋橋公民館
【標識所在地】 埋橋2-11-4
上下(かみした)町。城外武家屋敷の一町名。
「信濃信府」には「裏新町東西九拾九間余、家数北ヶ輪九軒、南ヶ輪二軒」 とある。
享保十年、同十六年の城下町絵図には裏新町が新町と書かれており、 さらに幕末期には上市町と名前を変えている。
【標識所在地】 旭1-8-6
今町は、江戸時代中頃に成立したといわれ、白板村に属していた。城下町割の外であったが、松本城下と越後の糸魚川を結ぶ千国通(街道)の起点に近く、その名は「村落なれども現今は町」を意味するという。
【標識所在地】 大手1-433
当地域には弥生時代から中世にいたる遺跡があり、その歴史は古い。中世までは高原瀬と言われていたが、地下水が豊かな湧泉地帯であり、小川が無数に流れ出ているので、出河川(でがわ)、後に出川(いでがわ)と呼ばれるようになったと伝えられる。町名は出河川里~出河川村~出川町~出川町村~出川町などと変遷した。
出川公民館
【標識所在地】 出川町1740-1
町人町・本町の枝町の一町名。
城下町の西口の出入り口にあたり、西端には十王堂が置かれていた。
町の規模は、本町から出口まで東西三町五十六間、道幅三間半、 家数百九十五軒で、東から上丁、中丁、下丁となっていた。
【標識所在地】 中央1-18-1
町人町・東町の枝町の一町名。
この町の成り立ちは古く、天正十三年(一五八五)頃といわれ、 由来はこの辺りから清水が湧き出たからとも、 倉品和泉という人物が住んでいたからともいわれる。
東町の北に続く善光寺堂に沿い、家数百一軒、 小路は南から東側に長称寺小路、観音小路、前栽小路、 西側には袋町から東町に出る小路があった。
【標識所在地】 旭日1-1-20
井は釜などと同様に湧水のあるところの地名である。建武年間に信濃守護小笠原貞宗がこの地に構えた館を井川館といったので、地名の起源はそれ以前である。戦国時代まではこの地が信濃国の政治の中心であったが、その後里山辺の林に館が移された。江戸時代には庄内組小島村と呼ばれた。
【標識所在地】 井川城3-4060-8
飯田町は松本城下枝町十町の一つで中町に属していた。
慶長十八年(一六一三)に城主小笠原秀政が飯田より入部した際に、 飯田から来た侍衆や奉公人職人を置いたのが由来であるという。
享保年間に家数には家数七十軒あり、主に鋳物師紺屋石屋鍋屋などの職人が 住んでいた。
【標識所在地】 中央2-9-5
蟻ヶ崎の名は中世から見られ、阿礼崎とも表された。「阿礼」は村を表す古語で、「アリ」「アレ」は神が降臨することを意味するという。地名の由来は、盆地を見渡す突端の村という意味から付けられたと考えられる。近世には蟻ヶ崎村であった。
【標識所在地】 蟻ヶ崎1-4-44
明治二十二年、和泉町より北に第二線路が開通し、同四十一年にはこの通りの中原地区東側に、松本五十連帯の兵営が置かれた。町名は軍旗の旭日旗と東方の旭日とをかけて旭町とした。
旭町小学校西門前
【標識所在地】 旭町2-4-4
松本城東側東門前の馬出し廊の堀の土を上げたところから町名となる。
惣堀の外の武家屋敷。この上土にかつては牢屋もあったと記録されている。
【標識所在地】 大手4-8-14
この地には県の宮や県塚の地名、古代の遺跡があるので、筑摩の県があったところと推定されている。大正九年旧制松本高等学校が現在のあがたの森の地に創設された際、町が造られた。町名は筑摩の県に因むものである。
あがたの森公園
【標識所在地】 県3-1-1
城内三の丸にあった葵の馬場に因む町名。
この地で騎馬の修練が行われていたことを物語っている。
戸田氏の藩祖康長が徳川家康から許された葵の紋章に因み、この馬場の土堤に葵を植えたことがその名の由来という。
【標識所在地】 丸の内15-3
逢初町の由来明治以降の松本の発展の中で、旧城下町の外に新たに町々が形成されたが、逢初町もその一つである。
この町名は、千鹿頭山から流れ出す逢初川が通っており、また明治の末から藍染も行われていたことに由来するという。市道3501号線
【標識所在地】 庄内2-3485-5
松本市和田2590-1
平成20年10月竣工
【太陽光発電3.98kw】
山形村下大池4560-5
平成19年4月竣工
【太陽光発電4.13kw】
松本市島内4661
平成15年8月竣工
【太陽光発電4.08kw】
松本市島立866
平成19年4月竣工
【太陽光発電5.05kw】
松本市高宮中1-2
平成11年7月竣工
【太陽光発電6.28kw】
松本市並柳2-14-28
平成15年5月竣工
【太陽光発電2.83kw】
松本市里山辺3040-2
平成9年10月竣工
平成15年8月改修
【太陽光発電3.77kw】
松本市原12-1
平成6年4月竣工
平成15年6月改修
松本市清水1-10-10
平成26年8月竣工
【太陽光発電5.54kw】
松本市沢村3-1-10-1
平成16年6月竣工
【太陽光発電4.08kw】