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11 民社党に参加 安保後の世論に乗れず落選


民社党県連結成大会の時、
西尾末広委員長(中央)

 選挙ですっかり金は使い果たしていた。外国へ視察に行きたくても二の足を踏むような状態だった。
 そんなところへ社会党の国際局長岡田宗次氏が、西ドイツのハンブルグで開く社会主義インターへ連れて行くと言ってきた。岡田氏は池田町の出身だ。オレはこれから勉強せねばという思いがあったので、「ぜひ頼む」と話に乗った。
 西ドイツの帰途、イスラエルや東南アジアを回って帰ってきたが、費用は社会党が負担。これは復党のお祝いであった。
 昭和34年6月、参議院の選挙が行われた。社会党はこの選挙で参議院第一党をかけて戦った。鈴木委員長はヘリコプターで全国を遊説に飛び回ったが、結果は前回よりむしろ下落した。
 この敗北に最も敏感に反応したのは、社会党と路線を共にしてきた総評幹部の太田薫氏と岩井章氏のラインだった。
 「今後は、共産党との共闘を原則にする」と太田氏は発表。
 となれば、マルキシズムとの関係は避けられない。これを拒否すれば共産党と対決することになる。
 「社会党が外部団体から口をはさまれ、振り回されることに耐えられない。主体性の確立を」と、主張したのは西尾末広氏だ。
 昭和34年9月、第16回社会党大会が開催されたが、ここで左派から西尾氏への離党勧告がされた。当然ながら西尾氏は反発。西尾処分に反対した右派に呼び掛け、西尾氏は日本社会党再建同志会を結成、全労会議は直ちに同志会支持を発表した。
 2カ月後の11月、新党準備会が開かれ、名前はいろいろな案が出されたが、「民主社会党」に決まった。
 昭和35年1月、東京九段会館に800人余が参集、委員長に西尾末広氏を選出し民主社会党がスタートしたのである。この新党の動きに長野県では林虎雄知事が意欲を示し、棚橋小虎参議院議員が社会党を脱党した。
 右派の吉田正氏が、左派であったオレに民社党への入党を強力に勧めにきて、民社党の考えをしきりに説明した。吉田氏はかつて萩元氏と選挙で戦った仲であり、その時、オレは萩元氏を推したにもかかわらず、民社党へ推挙したのである。
 吉田氏の周りには赤羽重太氏、所貞門氏、上条大作氏、草間寅雄氏の四天王と呼ばれた人たちがいて、オレの強力な支援者になってくれるという。
 こうした状況と、強力な吉田氏の推挙から、「世界の社会主義情勢から見て、今後は民主社会党の発展が望ましい。県内労組、中小企業、農民団体、特に婦人層の期待に答えて革新勢力を伸ばすことが必要だ」と思い、オレは民社党へ入党した。
 民社党が結成された昭和35年、日米新安全保障条約が調印され、全国で反対の闘争が盛り上がり、デモが頻発した。6月には国会乱入事件が起き、東大生の樺美智子さんが亡くなり、10月には社会党委員長の浅沼稲次郎氏が刺殺された。落ち着かない社会情勢の中で総選挙が実施されることになったが、世の中は社会党ブームが起きていた。
 オレは初めて民社党として選挙を迎えた。民社党は安全保障条約を認める路線であった。
 流れとしては当然の路線だが、世論はそうはいかなかった。投票の結果、オレは落選した。44歳であった。