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8 笹賀有志会 向坂先生の教え、農民運動へ


松筑農政同志会のメンバーと
(中央・本人、その左亀井清人会長)

 もう一つ忘れてならないのは、オレが県会議員に立候補するに際しカギを握っていた組織があったことだ。
 昭和電工の労働組合の応援はもちろんだが、オレが住む笹賀の青年団を中心としたもので「笹賀有志会」といい、いろんな勉強を重ねた。その仲間は、マルクス経済学者で九州大学教授の向坂逸郎先生が、木崎湖の夏期大学に講義に来ておられたところを、空いた時間に松本まで来てもらって学習していたのである。
 この仲間は「再軍備反対青年同盟」の組織をつくり、やがて「農政同志会」へと変わっていくのだが…。とにかく向坂先生から受けた影響は大きかった。
 もともと向坂先生は昭和23年ころ、扉温泉の明神館に泊まってマルクスの資本論について書いておられた。それをだれから聞いたか入山辺の百瀬節夫さんや百瀬城森さんがオレたちに知らせに来たのである。
 「入山辺に来ておられる先生は有名な方だそうだ。きっと先生は腹がすいているに違いない。握り飯でも持って話を聞きに行けや」
 オレたちは仲間を誘い合って先生を訪ねた。
 向坂先生は穏やかな顔をしておられたが、説くことは鋭かった。
 「戦争は財閥や軍閥が遂行した。にもかかわらず、それらの階層は依然として政権を握っている。なぜお前たちは反対しないのだ。若い君たちが決起しなければ、だれがやるというのだ!」
 みんな目が覚めたような気持ちになった。
 向坂先生を慕う仲間はしだいに増え、多い時は300人を超した。オレたちは先生の話を聞く仲間を向坂学校の生徒、と勝手に呼び合った。仲間は年がたつにつれて就職する者、それも都会で就職する者が出てきて、結局後に残ったのは農業に従事する者だった。活動はしだいに農民運動へ向かい、「農民協議会」「農政同志会」へと輪は広がった。
 「日本は財閥によって滅び、農民も苦しめられた。同じ轍(てつ)を踏んではいけない」をモットーに…
 オレたちは会長に亀井清人氏を選び、仲間には窪田稔氏、田中秀一氏、飯森克美氏、斎藤清氏など思い出すと多くの人が目に浮かぶ。女性では後藤千鹿子さんがおり、和田の公民館で会合をもつと必ず出席し、なかなかしっかりした考えを持つ頼もしい女性であった。
 衆議院議員の選挙に出ることになったのは、昭和33年だ。42歳の時である。
 当時、松本に協同乳業という会社があったが、その会社は農民のことをよく理解しているという評判だった。酪農家も積極的に会社に参画しており、しかも会社には酪農会議と酪農青年部という組織があり、かなり政治的な活動をしていた。
 それは協同乳業会長の吉田正氏が実は社会党の代議士だったのだ。しかし、吉田氏は昭和30年の選挙で敗れた。農民や酪農家のよき理解者だっただけに、同志たちは非常に悔しがった。吉田氏は、
 「残念だが、政治の世界から身を引く。後継者は君たちで決めてほしい」と表明。
 「それじゃ小沢がいいじゃないか」と、酪農会議と酪農青年部が協議、決定したのだ。