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6 県議初当選 メガホン片手に自転車遊説


県議に初当選(右から二番目)
 戦後の日本は、とにかく産めよ増やせよの時代だった。それは人であり、モノであり、それによって復興への道は近いと多くの人が思った。少なくともわが昭和電工は、石灰窒素を多く生産し、出荷すれば従業員の生活は潤うと信じた。
 一方、工場従業員は昭和21年の1月初め、労働組合結成準備会をつくり、1月末には組合を発足させた。オレも組合員になったが、石灰窒素生産のことしか頭になかった。政府から生産許可が出たのは21年9月。本格的な生産活動に入ったので、なお一層組合活動はできなかった。
 組合に出られるようになったのは昭和24年3月ころだった。出た途端に副執行委員長となり、以後執行委員や生産部長を担当して組織活動に磨きをかけた。
 オレが役員をしていたころの労働界は左翼思想が深く広く根をおろし、組織の指導権を握っていた。
 しかし、各企業に頻発するストライキ、一部の扇動者に同調して職場を放棄する労働者たち…。社会秩序を無視した行動は、やがて労働界の分裂を招くことにもなった。
 労働組合運動は、左派であろうが、右派であろうが、最初は手探りの状態で、組合員は『資本論』や『団結権の研究』などの本を一通り読んではいたが、論ずることと言えばまわりくどい論議ばかりだった。
 県段階の労働組織は、初めは必ずしも中央との繋がりはなく、独自の協議組織であった。昭和24年ころから左派系、右派系といった組織間の抗争が顕著になりはじめた。
 ところが革命思想をベースに闘争至上主義的指導を打ち出した左派系指導体制に批判が生まれ、民主化同盟が生まれた。
 オレたちは社会党の職場支部を結成。左翼指導が労働運動の主力になってはならないと常々話していた。話だけでなく行動することになった。時の県会議員の北原名田造氏に反発し、オレが県会議員に立候補することになった。
 家に帰って家族と相談した。
 「若気の至りかもしれんが、どうでも出てみたいだ。なんとか協力してもらえんか」
 案の定猛反対を受けた。小学校の担任だった中村建致先生もやめるように言ってきた。
 しかし、オレの意思は固かった。
 「出ると言った以上は出るつもりです。どうか先生も応援してください」
 いよいよ告示の日が来た。オレにとっては生まれてはじめての選挙だ。大道で自分の名前を名乗るなんて、とても恥ずかしく声が出なかった。
 職場の仲間が一丸となって選挙運動に携わってくれた。自動車も使わず、みんなメガホンを持ち、自転車で回った。
 「オザワテイコウ、オザワテイコウをよろしく」
 当時の選挙運動はどの候補者もメガホンを使ったが、塩尻の中村環(たまき)候補はメガホンを通すと、名前が「ノラクラ タマキ」と聞こえた。これを聞いた小学生たちは何と「ノラクラタヌキ」と新聞紙を丸めて通学していた。
 開票結果はその「ノラクラタヌキ」いや中村環氏がトップ当選、オレも無事に当選した。昭和26年5月のことであった。