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2 松本中学校進学 月謝に苦労 質屋へ通った母


長野工業学校時代のドンチャン騒ぎ(前列左から三人目)
 笹賀から見た松本市街地は、とても遠く感じた。
 昭和4年、小学校を卒業すると松本中学へ通うことになったが、当時は交通の便といえば汽車だった。
 オレは村井の駅まで自転車で行き、そこから汽車に乗って通学した。広丘の駅ができるとそこまで歩き汽車に乗った。近所で松本中学へ進学した者はほとんどなく、オレはいつも一人で通った。
 農村は不況の真っただ中で、小学校の卒業生80人中、8〜9人進学したが、それでも多い方だった。これは中村先生の指導がよかったからだと思う。しかし、オレの進学は相当無理があった。毎月納める授業料も母が相当苦労した。
 「ちょっと出かけてくるからね」
 紫の風呂敷に昔の宝物のようなものを包んで玄関を出ていく母をそっと追いかけたことがある。
 行き先は質屋だった。
 オレの月謝のために…
 すまないと思った。同級生の中には月謝が納められず、中途退学した者もいたので母には本当にすまないと思った。
 修学旅行もあったが、オレは行けなかった。ようやく授業料を納めていた者が、どうして行けよう。オレはただひたすら家の手伝いをして母を助けた。
 相変わらず父は不在だった。山梨や茨城県などを回って帰ってくると父は疲れきっていて、とても話しかけられるものではなかった。
 オレは小柄だったせいか父親も同級生も何だか大きく見えて仕方なかった。当時、松本中学では帽子のスジの色が学年によって違っていた。一年赤、二年青、三年紫、四年黄、五年白といった具合だ。
 通学路で白スジに出会うと何もしていないのに震え、緊張した。それだけ上級生には威厳があった。卒業するころには体も大きくなったが、オレはあまり威張らなかった。
 昭和9年、松本中学を卒業すると、就職しなければならなかった。妹の春水や弟の徹也はまだ学校に通っていたので当然といえば当然だった。母もオレを頼りにしていたことでもあったし−。
 父が洗馬村の熊谷村司さんという県会議員を知っていたのでその人の世話で日本沃度会社の塩尻工場へ就職した。日本沃度は当時カーバイトを製造していたが、オレは倉庫係に配属になった。仕事は物品の出し入れをするのだが、お年寄りが多くじれったい思いがいつもしていた。
 日中戦争が始まったのは昭和12年、国民も不安になっていた。オレも勤めて3年目になっていた。そんなある日、一つの張り紙に目が止まった。
 「長野工業学校第2機械科生徒募集」
 日中戦争で機械技術者が少なくなり、技術者の養成を目指して会社の壁に張られたのである。オレはそれを見て志願、無事に合格した。早速長野へ。寄宿舎生活を送ることになった。
 オレは一般の生徒よりも年をとっていたので、少々兄貴ぶって威張ってみたかった。長野の権堂にある「クローバー」というカフェに行き、コーヒーや酒をみんなにおごることでその気分を味わった。しかし、翌朝目が覚めると軽くなった財布をじっと眺めていた。