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1 笹賀小学校 授業中も頭の中は野球ばかり


松本中学4年1組の夕食会(昭和8年、4列目の右端)
 水田の広がる笹賀はオレの生まれたところだ。青田風が頬にやさしく吹いている。かって笹下(ささげ)村と呼ばれ、古代は皇室領の荘園であった「捧げの庄」の一部であったという。「ささげ」がどうやら「ささが」になったらしい。
 先祖には摂津の国の城主小笠原義長を持ち、義長が伊那の小沢家に養子縁組をしてよりオレは十二代目になる。
 九代目の庄左衛門は地主で酒造にも手を染めていたという。酒は『沢の井』の銘柄で多くの人に愛されたと聞いている。十代目の庄逸は酒造業のみならず、製糸業を営み、水平動力による製糸機械を考案した。ケンネル式製糸磨撚り器を応用したもので、松本平としては画期的な製糸機械であった。1877(明治10)年には内務大臣大久保利通公から花紋賞を受けている。
 しかし、奈良井川の洪水で酒造業も製糸業もつぶれてしまい、精米所や蚕糸業をすることになった庄逸。財産のほとんどを失ったが、働き者でわずかながらも再び財産を取り戻しつつあった。ただ男子がなかったので娘の美錫に養子を迎えた。
 塩尻町長・荻上兵五郎の次男径雄である。この径雄と美錫の間に生まれたのが、オレだ。1916(大正5)年、名前は貞孝(さだたか)と父が付けた。父は上伊那の農学校出身で片倉に勤め、養蚕技術員として全国をまわっていた。
 オレの記憶に父との生活はほとんど無い。笹賀の家は母がしっかりと守り、精米所や養蚕業も一人で切り盛りしていた。
 「学校から帰ってきたらお蚕さんの面倒を見ておくれ」
 オレが学校へ出掛ける前に母は必ずそう言った。
 小学校は神戸(ごうど)の笹賀小学校へ通った。家からおよそ4キロ、一時間は毎日歩いた。
 1、2年の担任は木村かづ先生。3年から6年まで中村健致先生にお世話になった。1、2年のことはあまり覚えていないが、上学年になると野球が好きでいつもバットとボールを持って登校した。授業の前に中村先生が男子生徒に野球を教えてくれるので、学校へ行くのが楽しみだった。
 「いいか。バットはあまり短く持つな。ボールを打ったら速く走れ」
 オレは背丈もあまりなかったが、速く走ることは得意だった。授業の時もいつも頭の中は野球ばかり、授業はあまりしなかった。
 ある朝のこと、いつものように登校してハッと気がついた。カバンを肩にかけていないのだ。
 「いったいオレはカバンをどこに置いてきたのだろう。いや、いけない。家の中だ」
 手にはバットとボールだけ。あわてて家に引き返した。およそ4キロの道のりを走りに走った。
 学校に戻ると午前中の授業は終わり、弁当の時間だった。
 遠足は笹賀にあった飛行場。中村先生やみんなと遊んでいると、ひょっこり木村かづ先生が現れた。先生はオレたちにあめ玉をくれた。
 「先生いいとこに来たね。一緒に遊ぶじゃん」とオレたちははしゃいだ。
 ところがまもなく二人は結婚されたのである。考えてみればあれは二人のデートだったのだ。
 その二人の先生はすでにこの世にいない。神様がもう一度だれかに会わせてやると言うならば、オレはあの中村先生と木村先生に会いたい。