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12 日中国交回復 糸口の「保利書簡」を起草


オーストラリアで子供たちと迎えた新年
 1968年、東大医学部を発端として全国で大学紛争が起き、東京外国語大学も全共闘の学生によって封鎖された。
 その際、教授会の代表委員に選ばれ、学生との交渉をはじめ紛争の渦中に身を置いた。東大、東京教育大、東外大という重症三大学の入試が実施できるかどうか、大きな社会問題になった。
 「私は絶対やるべきだと主張し、文部大臣の坂田道太さんとも交渉した結果、東外大は入試の運びになりました」
 その事態に全共闘の学生たちは怒った。研究室は荒らされ、火までつけられる始末だった。
 「世間は東大紛争ばかりに注目し、他の大学のせい惨な場面にまでは目が行かなかったようです」
 文化大革命を見、「造反有理」は間違っていることを唱え、さらに大学紛争に立ち向かっているうちに左翼思想が完全にふっ切れた。
 大学紛争が終息した1969年秋から一年半、外務省の派遣で香港へ留学。この間、創刊直後の『諸君!』に「香港通信」を連載、後に『中国をみつめて』(文藝春秋)と題して刊行された。
 帰国すると、日本には日中国交樹立のムードが漂っていた。
 「それまで蒋介石の台湾にばかり傾倒していたのに、振り子が大きく揺れていました」
 米中接近を予測できなかった日本では、自民党政権の中の権力の敗者が中国へ傾いていったのだ。
 「本当の意味で国交回復するなら、ムードではなく政策を形成すべきだと『諸君!』に書いたのです」
 「権力の敗者は中国をめざす」と題した。その論文に注目したのが佐藤栄作首相で、首席秘書官の楠田実氏から、「ぜひ、政策に反映させてほしい」といってきた。
 その結果、内閣官房長官の非公式な諮問機関として「国際関係懇談会」がつくられ、梅棹忠夫、石川忠雄、衛藤瀋吉、金森久雄、永井陽之助、神谷不二、山崎正和、江藤淳、高坂正堯の各氏らとともにメンバーになった。
 1971年秋、自民党幹事長の保利茂氏が、佐藤首相了承のもとで日中関係を打開すべく、周恩来首相に書簡をしたためた。当時の美濃部都知事がメッセンジャーとなったこの「保利書簡」は、大きな話題となったが、その書簡の草稿も、楠田氏から相談を受けて起草した。
 この書簡を、周恩来首相は受け取らなかったと報道されたが、日本側のシグナルは十分に伝わった。
 日中国交回復は、前段に佐藤内閣が一貫した中国政策を保持しきったため後に田中内閣になって一気に実現したと確信している。
 佐藤内閣では沖縄が返還され、また大学紛争も鎮まった。一方、教職の場としての大学では国際関係論を担当。自分が学生時代に充たされなかっただけに、ゼミ誌『歴史と未来』を発刊して国際関係論ゼミナールに力を注ぎ、教え子は現在世界各地で活躍している。
 1977年にはオーストラリアの国立大から創設間もない現代中国センターを強化するため招かれ、一年間家族で移住した。さらに80年にはパリ政治学院の客員教授となり、学術交流の輪が広がった。中国研究の世界一の権威、ハーバード大学のJ・K・フェアバンク教授に招かれて、ケンブリッジ中国史叢書に執筆したことも忘れ難い。