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11 初めての訪中 自ら確認した 文化大革命の現実


文化大革命の渦中、紅衛兵と合奏(1966年11月・上海)
 文化大革命の起きた中国を実地に確かめたいと思っていた折り、孫文生誕百周年記念大会があるという知らせがあり、勇躍、参加を願い出た。ところが日本政府から中国行きの許可が下りない。
 「当時はまだ、国家公務員の共産圏渡航が禁じられていて、簡単ではなかったのです」
 あ、そうですかと引き下がるわけには行かない。どうしても訪中したいと思い、人事院総裁に直訴して実現した。
 「日本代表団に遅れて単身、まず香港に行きました。1966年11月9日だったと思いますが、ビクトリア湾を隔てた摩天楼が圧倒的で、初めて異国情緒を味わいました」
 その後、広州を経て北京に入り、文化大革命の渦中に飛び込んだ。人民大会堂では、孫文生誕百周年の記念式典が開催されていたのだが、そこに当時の最高幹部である劉少奇と 小平の姿がなかった。
 「やがてこの二人だけが遅れて登壇しましたが、誰も拍手をしないんです。中国のマスコミもカメラの放列を向けないし、これはおかしいと直感しました。この風景から私は劉少奇と 小平の二人が当面の焦点なのだと判断しました」
 たまたま「読売新聞」に頼まれ、特別機動特派員として『これが中国だ!』という特集シリーズに記事を書くことになっていた。
 中国各地には紅衛兵があふれ、赤い『毛語録』を振りかざして、歌や踊りで毛沢東を称えていた。上海では武闘の写真を撮ろうとして、紅衛兵に追いかけられたが、そこで大変な情報をキャッチした。
 中国には大字報と小字報という壁新聞があるのだが、街頭で半分破れた一枚の小字報を拾った。そこには劉少奇こそ打倒すべき党内第一の実権派であり、 小平は第二だと書かれていた…。
 中国からの帰途、しばらく香港に滞在し、そこでもまた重大な情報を入手した。
 「北京の党中央は反毛沢東派が固めていて、毛沢東は北京から上海へ脱出して巻き返しを図ったのだ」というもの。
 様々な状況証拠に照らして調べると、かなり確かな情報だった。それらを「読売新聞」に寄稿したのだが、内容があまりにも衝撃的−という理由で、校正刷りの段階でストップがかかった。
 そこで『中央公論』に、「毛沢東 北京脱出の真相」と題して長い論文を書き、各国語に訳されて国際的にも大きな反響を呼んだ。
 当時「朝日新聞」などは毛沢東路線を高く評価しており、それだけに文化大革命の本質を衝いた論文は注目を浴びた。のちに『新・人国記』にも取り上げられたが、結局、「朝日新聞」も文化大革命についての見方の誤りを認めたことになろう。
 当時一貫して中国の路線には批判的だったが、日中友好の大御所、廖承志氏は、死の直前に「実は中嶋さんの論文で慰められていました」というメッセージを届けてくれたのである。