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10 母校の教師に 反響呼んだ初の著書『現代中国論』


東大大学院修士終了式で江口教授(中央)と
 現代思想研究会の解散後、清水幾太郎先生とは最晩年まで30年近く交流が続き、氏の強さも弱さも含めて多くを学んだ。
 そのころアメリカではケネディー大統領が就任し、日本では池田勇人が首相になっていた。
 一方、世界経済研究所での研究生活は続いていたが、世界の動向を見ているうちに中国とソ連の対立に気が付いた。戦争と平和は結局、民族解放の問題にもつながるのだ。
 1962年、中国とソ連の論争は激化するばかりであった。中ソ論争について論文を書き、同時に「東大新聞」などで現代マルクス主義について論陣を張った。『エコノミスト』誌に中ソ論争についての論文を書いて注目され、論壇にも登場した。
 また、日本の左翼陣営も中国派とソ連派ないしはイタリア共産党系の構造改革派とに分かれ、世界経済研究所にも、この対立が深刻に波及した。その現場に立ち会って、あこがれた中国系イデオロギーやマルクス主義が自分の内部で急速に崩壊していくのである。このような気持ちで研究を続けるわけにいかないと思うようになり、学生運動の仲間たちが大学院進学を目指しはじめたので一緒に受験してみた。
 幸運にも東大大学院社会学研究科に合格し、国際関係論を専攻した。
 指導教官は江口朴郎先生。マルクス主義の立場の著名な歴史家であったが、研究や執筆活動に関しては全く自由にさせてくれた。
 大学院在学中、中ソ論争を研究しているうちに、中国の立場に強い批判を感じはじめた。それは「毛沢東思想」を映し出した人民公社運動、大躍進運動などが、中国独自の運動とはいえ、余りにも疑問点が多かったからである。
 こうした立場から「毛沢東思想」を批判した最初の著書『現代中国論−イデオロギーと政治の内的考察』が1964年秋、青木書店から出版された。多くの反響を呼んだが、中国研究者やソ連の専門家たちに批判され、波紋が広がった。合評会ではまさに針のむしろに座らせられた思いだったが、そこへ江口先生が顔を出されて著書への好意的な意見を述べてくださり、大変うれしかった。
 なにしろ、毛沢東を批判し、中国の政治過程にも疑問を投げかけたものだったので、やむを得なかった。言論界でもタブーとされている論点だったのだ。
 その『現代中国論』は30年以上たった今でも版を重ねている。
 そんなある日のこと。母校の東京外大の経済学の伊東光晴先生、中国語の恩師・鐘ケ江信光先生、それに学長の小川芳男先生から「助手に採用したい」と言われ、びっくりした。かつて学生運動をやり、退学処分を受けそうになったのに、こうして母校に迎えられたのである。
 大学教師の第一歩を歩みはじめた1966年夏、中国では文化大革命が起きた。まさしく全世界を震撼させ、北京では紅衛兵旋風が巻き起こり、毛沢東は絶対化されていった。
 日本は中国と国交がなく、情報も入りにくかった。文化大革命とは何か、これから中国はどうなっていくのか、自分の目でぜひ確かめたいとの思いが強くなっていった。