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9 最初の仕事 安保に敗北 研究者の第一歩


学友委員長としてデモの先頭に立つ
 こうして1960年の春、無事大学を卒業したが、もう二度とこの学校には戻るまいと思って門を出た。
 世は皇太子と美智子妃が結婚、盛り上がりだした岩戸景気に日本の敗戦の傷も、薄れていっているかに見えた。だが実際には全学連が、国会に突入するなど国民の不安は募り始めていた。
 そんな中で、今までの学生運動などの経験を生かせる場所はないかと考えた。そういえば、運動の折、世界経済研究所理事長の小椋広勝先生に講演に来てもらったことがある。あの先生を訪ねてみようと思い、ご自宅を訪問した。世界経済研究所は財団法人とはいえ、財政の乏しい左翼の研究所だった。何の経済的裏付けもなかったが、まずは入所して研究したい思いに駆られた。
 「試験官は、理事でアジア・アフリカ問題で活躍中の岡倉古志郎さん。英語と仏語の試験を受け合格しました」
 最初の仕事は、EEC(欧州経済共同体)ができる時だったのでフランス語を活かしてヨーロッパ動向の調査をやり、やがて本来の中国研究に移った。
 1960年日米新安全保障条約が調印されると、全学連の安保闘争は激しくなり、同時に全学連の主流派と共産党が対立するところとなった。
 「その時の学生の気持ちは、新しい憲法に新鮮さを感じていたのに、日本はその逆の方向に変わっていくのではと憂慮していたのです。そこで、独占資本に対抗して日本の社会そのものを変えていこうと闘争したのです」
 しかし、既成の左翼政党は闘争の幅を拡大しようとするばかり。共産党は反米闘争に力を集中していた。
 あの樺美智子さんが亡くなったのもそのころだ。「結局、安保闘争は完全に敗北したのです」
 「民主主義の勝利といった社会党や共産党の評価は間違いで、私たちは安保を敗北と位置づけた。それだけに岸信介は憎かったですね。でも今考えてみれば、彼はすごい信念の人だったと思いますよ」
 安保の敗北後、知識人のリーダー格だった清水幾太郎氏を中心に、現代思想研究会が結成された。
 「清水先生には、全学連の前委員長香山健一氏(のちに学習院大学教授)から紹介されました」
 その縁で研究会のメンバーとなり、発行している『現代思想』の編集も担当した。全学連のリーダーだった森田実氏(現在は政治評論家)やのちにソ連研究で有名になった外大同窓の故志水速雄氏らも参加、フランス知識人の政治参加やスペイン人民戦線などをテーマに研究を重ねていった。
 1961年5月に創刊した『現代思想』は翌年秋、第7号をもって停刊し、現代思想研究会も解散した。
 安保の敗北という一点だけで結ばれていたこの会の解散は、当然と言えば当然かもしれない。
 当時25歳、中心メンバーであり裏方でもあったが、「自己の問題提起が仮説であることを認識する度量と吸収力を持ち、率直な反省が必要」と『現代思想』の最終号に書いている。