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8 外語大時代 講義に失望 学生運動に没頭


妻洋子さんと北ア笠ケ岳頂上で(1962年)
 一年の浪人生活中も山にはよく登った。深志高校時代は山岳部に所属していたこともあり、北アルプスはほとんどの山を登った。浪人時代の山の思い出としては、フランス語仲間で浅間温泉はやしや旅館の西村俊彦君や後に有名な弁護士になった山根二郎君を誘って、当時まだ人がほとんど入らなかった北アの秘境・雲の平にテントを張ったことがある。
 失恋の痛手をいやすためにも時には一人で山に登り、スタンダールの『恋愛論』やロシュフーコーの『箴言』などを読んだ。そんな折、素晴らしい一冊の本に出合った。串田孫一著『若き日の山』。それ以来、すっかり串田ファンになった。そして串田さんが東京外国語大学の先生であったことも、受験校の決定に作用した。専攻学科は中国かインドか迷ったが、アジアへの関心に変わりはなかった。
 1955年、インドネシアで開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)に感動したのもそのころだ。アジア・アフリカ諸国が自ら手をつなぎ、新興勢力として初めて立ち上がったのだ。
 当時の社会風潮として、資本主義より社会主義が注目されており、革命の息吹に燃えていた中国をやることに意義があると思い、中国科を受験、合格した。
 「当時、入試に面接もあり、なぜ外大を選んだのか質問されたので、串田先生がおられるからと答えました」
 語学はフランス語で受験したところ、最高点だったらしく、「あとで、フランス語の先生になぜフランス科へ入らなかったかといわれました」
 しかし、大きな期待と夢を膨らませた大学には、間もなく失望することとなった。
 大学の授業は語学が中心で、問題意識を持った者にすれば物足りなかった。だんだん授業にも出る気になれなくなり、学生運動に没頭して、学友会(自治会)の委員長や全学連のリーダーの一人となり、特に1958年の勤評闘争を最前線で指導した。
 「和歌山方式というのがありましてね、和歌山まで支援に行きました」
 その闘争には奈良女子大の学生たちも数多く参加していた。
 「そんな中で奈良女子大理学部の学生だったのが妻の洋子です」
 和歌山はじめ各地で教員のストがあり、外大でも3日間のストライキを提起したところ、当時の学生部長で英語で有名な小川芳男先生に、「退学処分にすると脅されましたが、後に学長になった小川先生とは気脈が通じ、いろいろと運命的な出合いがありました」
 戦後の経済混乱が少しずつ収まりかけてきた一方で、政治社会の緊迫は高揚していくばかりだった。時の総理大臣は岸信介氏。岸政権に抵抗する学生たちが大勢いた。
 卒業期はまた、六〇年安保闘争の高揚期。「それやこれやで、企業への就職活動は一切せず、卒業後は、世界経済研究所に入りました」