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6 家業の暗転 製薬会社へ 一人で直談判に


クラスマッチに優勝した深志高3年3組。カップ
を持つ担任の平沢武男先生の左で賞状を持つ
 多感な少年時代を過ごした清水中学校は、自由かっ達な雰囲気のもとに、立派な先生や先輩、後輩が大勢在籍していた。英語の田村フミエ先生、社会科の嶋田正次先生、国語の土谷繁富先生が個人的には印象に残っている。
 一年後輩の宮坂静生さんは現在は俳人で信州医療短大の教授に、中野幹久さんは地元のマスコミで活躍といった具合だ。当時の生徒たちの活動記録は、生徒会誌『窓』の創刊号にある。いつか物置を整理していたところ、その『窓』の全原稿が出てきて、整理どころではなくなり思わず立ち読みしてしまった。
 卒業直前の編集後記も出てきて読んだところ「全く感無量…」と記してあった。
 世界情勢に関心を持ちはじめたのもこの中学時代。「新憲法によって民主日本が世界に再登場することに新鮮さを感じました」
 清水中学から松本深志高校へ入学する。1953年の春だった。ちょうどそのころ、日本は吉田茂が5期目の総理大臣、1950年から始まっていた朝鮮戦争も休戦に向かっていた。
 ところが、世界の情勢どころではなくなったのだ。高校へ入学して間もなくの夏、父の経営する薬局が行き詰まってしまった。開業して25年、手広くやっていたのだが、父の根っからのお人よしが災いし、資金がうまく回転しなくなっていた。
 「結局、金融業者に家屋敷を渡すことになりました。父は寝込んでしまいノイローゼ状態。つらかったですね。でもこのままではいけない。何とかしなくてはと真剣に考えました」
 そこで高校1年生の身でありながら一人で製薬会社に直談判に行った。八王子の郊外の恩方村まで大正製薬の担当者を訪ねた。親身になってくれたが、結局は良い返事が得られなかった。
 「恩方村というのは夕焼けの美しい所で、その日もとても素晴らしかった。それに比べて、社会の壁は暗く、家業の危機をめぐって見られた人の心はなんと醜いものかと思いました」
 その年の文化の日、とうとうすべてを明け渡すことになった。土地、家、書画骨とう、家財道具など、それらを見事なほど、債権者は持っていってしまった。ただその中でどうしても残してほしい物があった。電蓄だ。今に例えれば性能のよいディスクコンポーネント。
 自分でお金をためて買ったもので、思い入れが深かった。それも家業の手伝いで松本から20キロ離れた島々宿まで自転車に乗って、薬を訪問販売してためたお金だ。
 「冬はアルプスおろしで耳がちぎれるほど寒かった」
 電蓄でチャイコフスキーの「悲愴」を暗記するほど聴き入った。音楽の好きな女友達も聴きにきてくれて、とてもうれしかった。その電蓄も持っていかれた。
 もちろん悪い人ばかりではない。「債権者は学校をやめて働くように迫りましたが、同業の上原義司さんは学校を続けるよう強く励ましてくれました」
 中島薬局の負債は、その後十年余り、父の死後も返済を続け、すべて返したという。