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4 父の日記小四の冬 鈴木メソード一期生


松商学園講堂で演奏する中学時代の中嶋さん
 日本も少しずつだが、戦災から復興の兆しが見えはじめた。
 松本市は幸いにして戦禍に遭わなくてすんだ。が、日本の復興がなければ当然、松本の繁栄もあり得なかった。父親の経営する薬局も繁昌し、いくつかの学校や近郊の農村にも販路を拡げていった。
 だが、父親は体が弱かったこともあり、商売より芸術や文学が好きで、文章を書くことが得意だった。従って父を訪ねて来る文化人も多かった。
 父の師でもある俳人の松村巨湫先生や歌人の若山喜志子さん、夭折した日本画家の山口蒼輪氏らがよくみえた。父は俳誌『樹海』の最高同人として句作に励み、地元の藤岡筑邨先生らとは中信俳句作家クラブを結成して生家が機関誌『雷鳥』の発行所にもなった。今も東京の自宅の壁にはこれらの先生方の色紙が掛かっている。

 〈鉢伏の雪のましたに晴陽居   巨湫〉

 父親は非常に几帳面な人でもあった。それは昭和の初めから亡くなる二日前までの43年間、丹念に日記をつけていたことからも分かる。
 亡くなった後のある日、その一ページ一ページをひもといてみた。読み進んでいくうちに熱いものが走った。確かに父の生きた証の記録であったが、明らかに息子へのメッセージであった。幼、少年時代の定かでない記憶も父の日記によって呼び覚まされた。また、今まで知らなかった事実も判然とした。
 日記は本来、個人の記録ではあるが、明らかになった時、同時代に生きた人間の生活史、風俗史にもなるのではないか。
 終戦直後の小学校4年の冬からバイオリンを習い始めた。才能教育では決して早い年齢ではなかった。従兄がバイオリンを弾いていたことの影響もあって、母に連れられ鈴木鎮一先生の門をたたいた。
 当時は、才能教育の前身、松本音楽院が開設されて間もなくのころだ。最初、木曽に疎開していた鈴木先生を魚問屋〆上(しめあげ)の渡辺さん、楽器店の神田さん、眼鏡店の能勢さんらが松本に呼び寄せ、そして声楽の森民樹先生にも来てもらって下横田の検番の建物を使って開いた。犬飼歯科医院の先生ら父兄の協力も大きかったという。
 父は音楽院のPTA副会長、これは父の日記から判明した。
 松本音楽院の一期生の一人として鈴木門下に加わったことは、今思えばまことに幸運だった。そのころ既に豊田耕児さんが、鈴木先生のもとにおり、東京からは小林健次さんらも時々レッスンに来ていた。
 特に豊田さんは、戦災で両親を失い、鈴木先生の家族の中で育てられていて「耕ちゃん、耕ちゃん」と呼んで親しくさせていただいた。そして大柳町の鈴木先生の家の土蔵の二階でバッハの弾き方を教えてくれた。
 一時、鈴木先生は体をこわされ、代わりに愛弟子の山本恵(あや)子先生が一年間教えてくれたが、日本人離れした背の高い美しい姿が印象深い。先生は浅間温泉を襲った集団チフスで20歳代で亡くなった。
 もし元気であれば、巌本真理さんや辻久子さんと並んで活躍したはずなのに、と思う。