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2 源池国民学校 先生に恵まれ 祭りに血騒がせ


満6歳・神道(四柱神社)で
 中町と並行して流れる女鳥羽川。川沿いには縄手通りがあり、小さなデパートや映画館、丸いドームの市役所もあった。
 「家の裏手の川に面した道を、当時は裏小路と呼んでいました。真っすぐ下ると喫茶の翁堂。そばに大きなイチョウがあり、そこに一銭店があってよく通いました。そういえば縄手の大道では香具師が何やら大声を張りあげてものを売っていましたね。中の橋のたもとにお好み焼きの屋台もあったのですが、いつも見るだけ。大人になったら食べたいだけ食べられるだろうな、なんて思いましてね。実は母が厳しくて…」
 一人っ子で育っていくのだが、近所や学校に友達がいっぱいいた。いつも学校から帰ると、それらの友達を誘って神道(四柱神社)の境内や川原へ走った。時には深志公園や旧開智学校(千歳橋下流付近)、さらに松本城まで冒険に行った。昭和18年のころ、小学校が国民学校と称せられた時だ。
 中町の生家は、校区が「開智」と「源池」の境目にあり、結局三軒違いで校区のなかで最も遠い生徒となって、「源池国民学校」へ通った。
 「ここでも担任の先生に恵まれました。清楚な高村和子先生、優しくて芯の強い太田喜久江先生、男性的で若々しい柿沢正二先生、復員直後で戦後の育に夢を馳せた金井庄平先生の作詩作曲の歌は、特に心に残っています」
 “日輪仰ぎ僕たちは、今こそ建てる民主の、光輝く新日本…”という歌は、いまでも口ずさむことができる。
 また、6年生の一学期だけの担任だった伴良次先生からは、薄川で岩石採取や植物採取など自然学習の基礎を学んだことが忘れられない。卒業時には古武士のような野々山於兎治先生だった。
 一方、松本にはたくさんのお祭りがあり、子供にとって大きな楽しみだった。中でも天神祭と神道祭。
 正月過ぎのアメ市では、塩やアメ、ダルマ、陶器の縁起物など、大きな声を張り上げて売ったものである。「売上の一部は神様にお供えして、あとは山分け」。
 特に夏の天神祭は、中町の子供たちにとっても最高のお祭りだった。祭りの一カ月前になるとお囃子の練習が毎日のようにあった。大太鼓、小太鼓、ちゃんちゃんりつ(シンバル)と交代で練習し、山辺のおじさんの笛が入ることもあった。ただし、低学年の間は大太鼓に触れることもできなかったが、五年生で異例の大音頭(大太鼓)になった。
 “ひとつとや、人の心は第一に…”“シャガシャウ…”“シャシャラ、シャシャララ…”と今でもお囃子の歌や曲が時折、頭の中を流れる。
 また、松本には伝統的な子供の行事、夏の青山様ぼんぼん、冬の三九郎があるが、これらは都会では見られない風景だ。
 青山様には神輿が付き物だが、その当時なぜか中町二丁目にはなかった。
 「それを、父が町内の子供たちのために注文して作ってくれまして…どんなにうれしかったか」。一人っ子ではあったが町内の子供たちが兄弟のようだった。
 祭りのたびにみんなと手をつなぎあった少年時代。“青山様だよ、ワッショイコラショ”の声が聞こえると、どうしても少年の日の血が騒ぐ。