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1 中町の幼少期 二・二六の年、薬局の一人息子で

 松本の町並が変遷していく中で、モノトーンのたたずまいを整然と保ち続ける中町。本町を左折して歩いてみる。
 毎年、乗鞍高原で開いてきたゼミナールの学生たちも一緒だ。学長という立場上、ゼミを持つのも今夏が最後とあって、感無量の思いで歩いていた。「先生の生まれた家はどこですか。まだ残っていますか」
 学生の一人が聞いてくる。「いや、もうないんだよ。あそこに生金(いくきん)という布団屋の看板が見えるだろ、あの近くだったんだ。大きな蔵も2つあったんだが、取り壊されてしまって、今はビルが建っている。おもかげが無くなってしまって…」
 しばらく歩いているとだれか後ろから声をかけてくる人がいる。「中嶋さんではありませんか」
 どことなく見覚えのある顔だ。記憶の糸をたぐりよせてみる。「あのー、もしかして太田南海先生の…」「そうです、南海の息子ですよ。いやあ、よく覚えていて下さった。うれしいですね。立派になられて、時々新聞やテレビでお顔を拝見しています」
 木彫で有名な太田南海さんは、中町で人形屋をやっていた。
 小学校のころには人形や仏像を彫るところをじっと見ていたものだ。その南海さんの息子さんと実に45年ぶりに出会ったのである。しばらく立ち話をしているうちに、むしょうに子供のころがなつかしくなる。
 再び中町を歩きはじめる。変わらない家、変わった家と思いでのページをめくりながら、もう一度「生金」の看板を振り返る。
 父(中嶋高雄)が昭和2年に開業した薬局は、小池町を突き当たった角から三軒目だった…。そして六九町の村瀬時計店から嫁いだ母(綾子)も家業を守るべく、明るく楽しくお客さまに接していた様子が昨日のようによみがえる。
 父の創業した薬局は見立てがよく、評判となって繁盛したという。
 1936年(昭和11年)5月、中嶋薬局の一人息子として中町二丁目四六四番地に誕生。名前は父が「嶺雄」と付けた。その年は、ちょうど二・二六事件の起こった年でもある。社会は緊迫した空気が流れていたが、父親は若いころから俳句をたしなみ、号を晴陽と称して東京の石楠系の松村巨湫先生の高弟でもあった。
 1940年、小柳町にあった私立松本幼稚園に入園。当時、園長は一志茂樹先生。後に松本市博物館館長、信濃史学会会長を務めた。「あのような方が園長だっただけに、幼稚園も立派な教育理念を持っていたのではないでしょうか」
 赤羽、太田、保科の諸先生や若い担任の、杉浦眞美先生が目に浮かぶ。どの先生もやさしかった。
 あれから半世紀以上が過ぎた。まだ教育の「教」すらわからない年齢でもあった。だが、今思えば、松本幼稚園の3年間こそ、信濃教育の場に第一歩を踏み入れた時期でもあった。