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12 学長を勇退 時間に縛られない 夢を実現


旧制松高75年祭で汲田克夫氏(左)
奥村敏栄氏と
 国立大学から私学の短大へ赴任して半年がたったころだった。
 私は要領が悪かったせいもあるが、学長という職務は予想以上に忙しいことがわかった。はじめは学生たちとひざを交えて話す機会があると思っていたが、そんな機会はなかなか来ないのだ。そこで私は卒業するまでに各ゼミのクラスへ必ず一度は訪ねようと考え、実施しはじめたが、これもなかなか困難だった。
 短大の校歌を作詞してほしいと要請されたのはそれから間もなくだった。もちろん詩については素人。作詞のルールらしきものすら知らなかった。
 「筑摩野に/明(あか)き陽昇り/蒼穹に/希望は踊る……略」
 曲は才能教育研究会の故鈴木鎮一先生が情熱を込めて作って下さった。曲が付くと、不思議なものでこれが私の作った詞なのかと思うほど立派に思えた。
 短大にはほとんど毎日出かけたが、学生たちは私の顔をなかなか覚えてくれなかった。事務室で言葉を交わしたある女子学生は、「先生は何を教えておられますか」。と、まじめな顔で私に尋ねた。これには思わず苦笑してしまったが、このような風景はよその大学でもあることらしい。どうやら学生たちは教科担当以外の教師の顔は覚えようとしないようだ。
 父がかつて私を政治家にでもさせたくて、名前を書きやすいように「一」と付けたと聞いたことがあった。だが、学生たちに顔を覚えられないようでは、とても政治家どころではないとあらためて思った。
 赴任して一年後の昭和59年、「蒼穹」という広報誌の発刊を提唱し、創刊した。学生たちと紙面を通してコミニュケーションができればと思ったのである。
 光陰矢のごとし。学長になり、月日はあっという間に過ぎた。在職中有り難かったことは、短大の先生方が日夜研究にいそしむ以上に学生への心配りが行き届いていることであった。だが、残念だったことは、優秀な先生方が、つぎつぎと他の大学へ移られたことだった。これはどうやらスカウトによるものが多かったようだが、教官がいなくなればこちらとしても次から次にと良い人材を迎えるように努力しなければならなかった。経営情報学科を増設することができたのは、平成4年のことだった。そしてその翌年、私は勇退(?)することにした。ちょうど赴任して10年がたっていた。
 信大を定年退官する時は、私なりの夢があった。それは時間に縛られることなく、例えば信大などへ聴講に行ったりして好きなことに打ち込めると思っていたが、松商短大に移ってからは多忙極まる10年を過ごした。しかし、短大をやめて、やっと夢が実現することになった。
 すでに75歳だったが、信大へ聴講生にもぐりこんだ。ニセ学生としてである。理学部では「エントロピー」などの講義を聴いたが、このような感銘深い話を若いころ聞いていたら、私の人生はまた変わっていたかもしれない。そこでも50歳以上も年の離れた若い学友たちにも恵まれ、現在も交流が続いている。近ごろでは、年とともに根気がなくなり、体力も衰えた気がする。もっとも東大のクラス会に出席しても、老人病の見本の集まりのような風景を見るので、それほど気にすることもないだろう。
 今は週に一度、旧制高校記念会館に遊びに行って、自称案内人(?)をつとめている。