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10 60年安保 渋滞に−後味悪いデモ行進


信大図書館長時代
(昭和47年)
 「教授会のメッセージを届けたい」と自治会の学生に連絡すると、これから街にデモに行くので一緒に行って駅頭でそのメッセージを読むように言われた。私は断ることもできず、学生のデモ行進の一番うしろについていった。松本駅に着くと、学生は市民らの前でメッセージを読むようにと言う。こんなことは生まれて初めて、マイクにしがみつくようにしてありったけの声でガナリ立てた。
 後日、学生たちの評。
 「何を言っているか、よくわからなかった!」
 今度は千歳橋の方へデモ行進。松本の中心繁華街を道いっぱいに輪になってデモり始めた。バスや車は立ち往生。困ったなと思った私は行進の群れの中に飛び込んだ。
 「もう引き上げろ。これ以上市民に迷惑を掛けたら、反感をかうばかりだ」
 「すぐ移動しますから」
 学生も素直に聞いてくれたので、群れの中を出た。途端にまわりにいた中年の男に怒鳴られた。
 「そんなにアジってもらったら困る。この交通渋滞を見ろ!」
 私はその言葉にカッときた。
 「ふざけるな。移動しろと言ってきたんだ!」
 デモはそれから1分もせぬうちにお城の方へ向かって行った。まわりの警察官もおろおろしながら見守っている。私は目の前の交番へあいさつに行った。
 「お手数かけてすみませんでした」
 私がそう言うと、大勢つめている警官の真ん中で偉そうな私服の男がいた。
 「大学のお偉い先生がやったって駄目なんだから、俺たちがやったってうまくいくわけねえよな!」
 よく見ればさっき群れの中で私を怒鳴った中年の男だった。まことに後味の悪いデモ行進だった。  信大内に衛生技師学校が開校したのは昭和41年4月。私はそこの物理の講義を担当した。
 最初の授業に行ったところ驚いた。ほとんど女子学生だ。私が講義を始めて10分もしないうちに居眠りをする者が出始めた。何とか興味を引くように講義をもっていったが、あまり効果はなかった。仕方がないので一計を講じて、合唱をしてもらうことにした。最初はタクトを振る者がいなかったが、そのうち出てきて「若者たち」などを歌った。これは効果があった。みんな生き生きした表情になった。しかも隣の動物舎の犬も一緒にわめくような声で参加した。
 この学校は医療短期大学の発足とともに10年で閉校されたが、定員が20名と少なくどこか家庭的な雰囲気のする学校だった。中核になった上村英夫教授のお人柄によるものであろう。衛生技師学校が開校した同じ年、信州大学教養部が発足したが、これはいくつかの障害を乗り越えてのスタートだった。
 信大では教養課程を4カ所(松本、長野、上田、伊那)で受講することになっていたが、それぞれが全く独立していて学生たちは単科大学に通っているようなものだった。4年間の学生生活の中でせめて1年くらいは総合大学らしい雰囲気の中で、文科、理科系の学生同士、教官との交流を持たせよう。さらに全学統合への一布石として誕生したのだ。若手教官たちが文部省へ行き、次官に直接会って申し入れをした結果でもある。そうした教養部の部長に私が就任したのは、発足12年後の昭和53年であった。