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9 信大発足 行き違いあり 学長空席のまま


自然科学物理専攻の学生たちと
(信大助教授時代、昭和32年)
 「兄さん、家内が結核らしいんだ」
 弟の困ったような声に、私は居ても立ってもおれず愛媛まで飛んでいった。会社勤めの弟は一歳半の乳飲み子を抱え途方に暮れていた。
 「じゃあ、この子を松本に連れていってやろう」
 当時、愛媛から松本まで何遍も列車を乗り継いで28時間余の旅だった。私はおむつをかかえ、子供を背負って汽車に乗った。途中、京都付近であまりにも泣くので下車し、おむつを替えると泣きやんだ。おむつを駅のトイレで洗いながら切なさが胸に込みあげた。こんな状態でこれからどうなるかと、私は急に不安になった。が、もう戻れない。実は妻にも連絡せずに連れて帰ったのである。家には長男が小学校3年生、次男が幼稚園児という二人の子供がいた。しかし、妻はこの大きなお土産(?)を見て何も言わなかった。
 「二人育てるのも、三人育てるのも同じですから」
 妻のその言葉が何より有り難かった。知らない人たちは、わが家に第三子が誕生したと思ったらしい。
 それより前、昭和24年、新制大学の発足に伴い、私は信州大学文理学部に移った。その前年、私たちの関心事は学長にどなたが選ばれるかだった。風の便りでは文部省の推薦で竹ノ内松次郎先生(松本医専校長)がなるらしいという。私たち教師にはほとんど知らされていなかった。当然、若手教官たちは「民主主義のルールを無視するのはおかしい」と言って文部省に陳情(抗議?)に行った。
 それが効を奏したのだろうか、学長は空席のまま大学は発足した。結局、竹ノ内先生は郷里の福井大学長に赴かれたが、不本意だったのではないだろうか。学長推薦のプロセスさえ間違っていなければ、竹ノ内先生の「信大を素晴らしいものにしたい」と言っておられた宿願は達成されたであろう。
 思えばこの竹ノ内先生は松本医専の校長を務められ、在学中はとても厳しいことで有名だった。例えば食糧難のころ、寮生が農家から作物を失敬することがあったが、それが分かると午前5時に校長宅に呼びつけて論語を講じた。論語を読み終わるまでには結構月日がかかった。満願の朝には、講義が終わったところで大皿いっぱいのサツマ芋を出し、「さあ、おなかいっぱいおあがり」と言われたという。
 私は専門としては文理学部の物理学科を担当。受講生は10人足らずだった。教養部最後のころは高校時代、物理をろくに勉強してこなかった学生も交じっているクラスを担当した。講義をする側としては人数の少ないのは理想的だった。私は物理の問題集にはない問題を出して、考えさせた。例えば“ブランコはなぜ揺れるか”。学生たちは彼らなりの解答を作り、討論した。
 昭和35年、60年安保闘争で学生などデモ隊が国会に押しかけたが、信大でも学生たちの運動が盛り上がった。私たち教授会も学生たちの突き上げを受け、急きょ安保条約の勉強をすることになった。何しろ専門外のことには疎いので、学生たちと対等に話していくための知識をにわか勉強したのだ。
 学生からの要求は、教授たちも積極的に集会に参加し、教授会から安保条約について何らかのメッセージを出してほしいということだった。当時、私は森政勝教授と厚生補導委員をしており、こうしたときの学生とのパイプ役でもあった。いつも森先生が正面に立って、私はその陰で小さくなっていたが、その時「教授会のメッセージを届ける件、頼むよ」と言われては、いつもお世話になっている手前、断るわけに行かなかった。