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8 北 杜夫 打てば響く 滅法楽しい学生


テレビ「私の秘密」に出演、北杜夫氏(左)
とご対面(昭和41年)
 旧制松本高等学校では大正8年から昭和24年1月、30期生を送り出すまで、多くの学生たちが学んだ。中にはユニークな学生もいたが、私が在職中、特に印象に残ったのは阿部英太郎君(東大名誉教授)、平川暁子さん(現放送大学教授)、齋藤宗吉君などだが、この齋藤君こと北杜夫は歌人齋藤茂吉の子息である。
 彼は昭和20年4月に入学し、卓球部に属していた。私がたまたま見に行ったところ、「先生もやりませんか」と誘われ、部長にまつりあげられた。卓球部のキャプテンでもあった彼は卓球に夢中になると、冬でもパンツ一つになって頑張っていたが、調子が悪くなると床の上に大の字になり二、三分動かなくなって、敵を煙に巻くというような滅法楽しい男だった。彼は後に精神科医となり、今では有名な作家北杜夫に転落している。思えば彼の才能はすでに学生のころから目立っていた。テストの答案にもあらわれ、さすがに齋藤茂吉を父に持ったというようなところがあった。例えば、
 「時により出来ぬは人のならひなり 松崎教授のなさけ待つ吾は」
 「為すすべも今はつき果てダルマ画く 吾の心を君は知らんか」というように。
 また、コイルの計算をする答案には「僕らの物理学」と称して詩が書いてあった。
 「恋人よ/この世に物理学とか言ふものがあることは/海のやうにも/空のやうにも悲しいことだ/恋人よ/僕はこんなに頭がよいのに/この物理学でもって…あなたから/白痴のやうに思はれてしまった…略」
 私はこのあまりにも見事な答案用紙に思案の末、59点をつけた。これは0点ではないが、合格点ではない。規則では60点未満が4科目以上あると、学校側から一応注意を促す意味で親元へ成績を送るようになっていて、彼のところにも送られたようだった。私は廊下で齋藤君とばったり出くわした。
 「先生、ひどいや。あんな立派な答案に注意点をつけるなんて。先生の審美眼を疑いますよ。おかげで親父に油をしぼられちゃった」
 「そうか。君の親父がそんなにものわかりが悪いなんて思わなかった」
 「え?私は先生がそんなに先見の明のない方とは思いませんでしたよ」
 さすがにピンポン部(卓球部)の主将だ。ああ言えばこうと、ピンポン玉のごとく会話は打てば響いて返ってきた。
 かれはその後、「どくとるマンボウ青春記」を著し、私を実名で登場させており、けしからんと思ったが…。でも、大学紛争の折り、その「どくとるマンボウ」を読んでいた学生たちとの対話が穏やかにすんだという効果もあった。それを思えば感謝しなければならないであろう。
 一方、私たち夫婦と同居していた従兄弟は、めでたく医専を卒業するとわが家を出ていった。だが、これで家族だけの生活に入ったわけではない。今度は稲荷山の実家の近くに住んでいる姉の息子がやってきたのでる。深志高校に通うには私の家からだと有り難いというのだ。その彼が無事に卒業したころ、今度は愛媛県にいた末弟から電話がかかってきた。