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6 松高教師に就任 入隊ならず 帰郷早々赴任先へ


自宅前で出征を前に
前列右から5人目
 昭和16年の夏休み明けだった。大学の廊下で先輩でもある若手の助教授熊谷寛夫先生に呼び止められた。「松高の向井先生と桑木校長から、君に松高の物理の教授として来てほしい、打診してほしいと言ってきました。君も来春は卒業ですね。どうですか。食指が動きませんか」
 丁寧な言葉づかいだった。この熊谷先生は松本市寿のご出身で、松高の大先輩である。当時自宅から学校までを1時間余りも歩かれたと聞いていたが、そのような先輩に言われて光栄だった。
 さらに私は向井先生に教えていただき尊敬していたので、ご一緒できるなんて、こんなありがたいことはないと思った。が、一方では東京にもいささかの未練がないわけではなかった。しかし、東京は食糧事情も悪いし、自分の健康のことも気にかかっていた。何より高校生を相手の仕事なら気易く入り込めるとも思った。10日ほどして私は熊谷先生に「よろしくお願いします」とあいさつに行った。ところが、昭和17年2月1日付けで私に入隊の召集令状が来た。すぐ向井先生に連絡した。「お国のためとは言え困ったな…」
 優しい先生の言葉に、いくらか私も落ち着いた。後になってわかったのだが、入隊前日に採用の発令を出して下さったという。召集部隊は金沢の野砲兵。私はその前年、体調を崩して休学しており、体には全く自信がなかった。
 入隊当日、案の定、軍医から「この体では兵役には耐えられないだろう」と診断され、即日帰郷の命令を受けた。旗や幟(のぼり)に送られてきた手前、まことに世間体が悪い話だった。私はひそかに夜遅く、故郷の屋代駅に降り立った。それは静まり返った夜の街への凱旋だった。征くときは、歓呼の渦の中から出発したはずだったが…。金沢の連隊に一泊して帰ってきた私は、その翌日一日中家にこもっていた。両親は内心ほっとしたであろうが、近所の人に会うごとに「世間様に申し訳ない」と私の不甲斐なさを恐縮していたようだった。
 一日おいた2月4日、早々に私は松本へ向かった。1日から松高に赴任が決まっていたのである。最初の仕事は入学試験の監督と採点だった。当時私は24歳。高校生と私とは3、4歳しか違わず、むしろみかけは大人っぽく見える学生も少なからずいた。
 新学期は本来なら4月10日ころから始まるのだが、その年は授業開始が3月16日だった。太平洋戦争が始まったばかりで、修業年限が短縮されたため、1カ月早くスタートしたのである。私は2年の物理学と3年の力学を担当。最初の講義をすませて研究室に戻ると、一人の生徒がついてきて私に言った。
 「先生、僕の家庭教師になっていただけませんか」
 あまりにも唐突なことだったので、どう返事をしたかわからない。多分「質問があったら、いつでも来ていいよ」とでも言った気がする。そのころ私は生徒時代にお世話になった蟻ケ崎の下宿に住んでいた。家庭教師をしてほしいと言ってきた生徒は、今のストーカーよろしく私のあとをよくついてきた