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3 旧制松高時代 都会に映った松本 下宿で猛勉強


小学校1年のころ
前から2列目、右から4人目。一人だけ学生服だった。
 中学を卒業した後どうするか。家業はもう一つ景気が良くなかったので、進学することにしたが、どこへ行くか決めかねていた。私は先輩が通っていた旧制松本高等学校へ行きたいと思った。滑り止めとして、桐生工業高等学校も受験した。結局、二校とも合格。父は桐生工業高は3年で卒業できるので迷っていたようだが、私の希望が入れられて松高へ行くことになった。昭和10年のことだ。松本は中学の時に兵舎見学に行っただけで、ほとんど知らなかった。駅を降りると、その都会ぶりに驚いた。稲荷山の町とは天と地ほどの違いがあった。まず、路面電車が走っている。人の多いのにもびっくりした。いつか屋代中学の修学旅行で行った名古屋や東京を思い出していた。大人から見ればそれほどではなかったかもしれないが、私の目には確かにそう映ったのである。
 私は学生寮には入らず、下宿をすることにした。寮の経験のなかった先輩に「寮に入ると酒を飲まされたり、勉強ができないぞ」とおどされたことが耳に残っていたからでもあった。学校は、松本駅を降りて正面の道を突き抜けた先、現在のあがたの森にあった。最初の2年間の下宿は現在のNHKのあたり、電車通りに面した“しもたや”だった。散歩にはよく出かけ、寮や友人の下宿に押しかけた。また、下宿の同じ敷地内には彫刻家の太田南海さんのアトリエがあり、よくのぞいて通った。しかし、太田さんとは全く話したことはなかった。
 通学には10分ほどあれば十分だったが、学校や町に慣れてくると、もう少し遠い下宿の方が運動になるのではないかと考えた。そこで3年生になった春、私は蟻ケ崎へ引っ越した。ご主人は北支開発の天津工場長とかで西沢静一さんといった。ふだんはお母さんと小学校の教師だった妹さんがいたが、私をとてもかわいがって下さった。
 高等学校でも数学が得意だったが、困ったのは英語だった。同級生は東京出身者が多く、さすがに都会での勉強は違うと思った。夜はほとんど外出することはなく、ただひたすら英語の下調べに明け暮れた。。広い意味で私にとって勉強は一つの遊びだった。例えば数学は勉強というより、パズルを解いているようなものだった。数学ができれば、物理もよく分かる。物理の解明には数学が道具として使われ、だんだん物理が楽しくなった。
 物理の担任は向井正幸先生。授業以外にもお世話になった。ある時は、ふとひとりで先生のお宅を訪問。お茶をご馳走になりながらよもやま話をうかがった。温かな先生のお人柄に私は心が和んだ。湖の水質検査に行くと先生がおっしゃると、私はついていきたいとお願いしたり、将棋や碁のお相手をしたり、先生のそばにいるだけで安らぎをおぼえた。時には足手まといになったこともあっただろうが、決して先生は困ったり怒った顔を見せない不思議な方だった。