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2 屋代中学へ進学 先生たちに恵まれ 成績は優秀


7歳のころ、職工の鈴木さんと
 隣家は、私の生まれたころ開業した矢沢医院。この医院とは奥行き20メートルほどが壁一重で、信夫君や信彦君とは年齢も近くよく遊んだ。いつも彼の家へ行く時は秘密の抜け道を通った。それは私の家の階段の下を横から抜けると、彼の家の階段下になり、そこを回ると医院の待合室だった。母も病気がちだったので、具合が悪いとそこを通って信夫君のお父さんを呼びに行った。ところが私の家に来てもらう時は、ちゃんと店の方から来てもらうようになっていて、まことに都合のよい抜け道だった。
 小学校時代の成績は全般的に良かったが、私はおとなしく内気で、およそ商売家の子供のようではなかった。しかし、長男の私は、当然ながらメリヤス製造業を継がねばとひそかに思っていた。ただ母だけは「あんなに愛想が無けりゃ商売はできないよ」と、常々言っていた。父母懇談会の日も、毎年一度だけ母が来てくれたが、商売家である以上やむを得なかった。
 小学校卒業後は、屋代中学へ進学したいと思い、受験。入学試験の当日、配られた問題に私は目を疑った。送り仮名が間違っているのだ。監督の先生に手を挙げた。
 「先生、ここの送り仮名、間違っていますよ」
 考えてみると、中学の入学試験からにして思い上がっていたのである。受験者は全員合格。それもそのはず、定員に満たなかったのである。世の中が不景気で、進学率も低かった。そこで上田中学や長野中学を失敗した者たちが追加入学してきたが、結局、彼らは翌年4月、上田や長野へ転校してしまった。
 屋代中学には立派な先生が大勢おられた。すぐに思い出されるのは山崎林治先生。週1回、唱歌を教わった。ちょうどそのころ、私たちは声がわりの年ごろだった。先生はそれを承知しておられたのであろう。独唱を決して強いることはなく、手巻きの蓄音器でシューマンの「流浪の民」やシューベルトの「菩提樹」などの名曲を繰り返し聴かせてくださった。まだ校歌も制定されていなかったので、「信濃の国」や寮歌などを歌った。そのころの通知表は、修身とか唱歌には評点の欄がなかったが…。
 実は山崎先生は生物学が担当の方だった。が、他に国語など週に5時間も担当し、寺田寅彦や小川未明などを私たちに読ませたり書かせたりして人間的な情操教育をして下さった。現在もお元気で100歳を最近迎えられた。地理や歴史を教えて下さったのは高野豊文先生、数学は小林長治先生や森蕃先生、英語は清水輝次先生…。素晴らしい先生方だった。特に数学の先生方は、私共の自主性を尊重して下さった。
 私は小学校から算術が好きだったが、中学に入ってますます興味を持った。特に森先生が教えて下さった幾何学はパズルを解くようで大変面白かった。成績表はほとんど「甲」で「乙」は少なかったが、一度だけ図画で「丙」をもらったことがある。実はこの図画の担任は、入学試験の時、監督だった方、私の遠縁にもあたり“えこひいき”の無い良い先生だったと思う。が、以来図画にコンプレックスを持つこととなった。