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11 演劇の魅力 色川大吉さん率いる研究所へ


大島渚、小川明子夫妻の仲人で結婚(昭和47年)
 同じ職場に芥川賞候補になった作家がいたので、彼の作品「小ねずみ」を一幕もので上演した。出演者は2人。主役は吉岡たまえ。本名を安田たまえと言った。大蔵省理財局に勤めながら中央演劇学校に通い、新協劇団の研究生でもあった。
 仲間も10人近くになり、いよいよ文化祭の発表になった。ズーデルマン作の「故郷」という作品だ。
 私は準主役のケルレル参事官の役。私にとってはじめての演劇であり、舞台でもあった。観客の拍手を浴びたとき、何とも言い知れぬ満足感があり、演劇の妙味にとりつかれていった。
 ある日、私の舞台練習をじっと見ている人がいた。どこの人だろうと思いつつ、彼の視線を感じていた。
 「君は役者になるべきだ。近々、僕は新協劇団をやめて、劇団をつくるから吉祥寺にある前進座で試験を受けてくれないか」と、彼は一方的に話しかけてきた。
 その人は私と同年輩の新協劇団演出部の三木という人だった。なぜ彼が、その劇団をやめて新しいものをつくろうとしたのか、その理由はよくわからなかったが、せっかく声をかけて下さったこともあり試験を受けることにした。結果は合格。私は三木さんの率いる演劇研究所の一員となった。昭和26年のことである。
 講師陣には土方与志、下村正夫、瓜生忠夫の3氏を迎え、私と同じ年齢くらいの男女の若者がおよそ60人、昼間働いて夜は演劇の勉強をする「新演劇研究所」が発足した。私たちの仲間の職業はさまざまで、日雇い労働者もいれば学校の教師、ウエイトレス、女医などがいた。
 創立者の三木さんというのは、実は色川大吉さんである。彼は歴史学者の服部之聡東大教授の弟子となり、一橋大学教授としてマスコミに名を駆せた人である。
 後援会長には演出家の小川清氏がなって下さった。後に文化放送の重役になった方である。
 そうそうたるメンバーで出発した新演劇研究所は、初期の2年間、代々木の共産党本部と隣り合わせの木造の家の2階を借りた。そこには私たちの劇団のほかに数個の小劇団がひしめきあって部屋を借りていた。隣の部屋はわずか5、6人の団員の喜劇座。しかし、毎日歌ったり踊ったり、にぎやかな声が流れ、いかにも楽しい劇団のようだった。その中の一人と、私はいつからともなく話すようになった。
 いつもベレー帽をかぶり、アコーディオンを抱え腰をくねらせながら大きな声で歌う彼。アルバイトはタクシー運転手をやっているんだという彼。名前を「いずみたく」と言った。
 後年、彼は作曲家となり、「見上げてごらん夜の星を」など数々の名曲やCMソングをヒットさせ、六本木にフォンテーヌビルを建てて多くの歌手を育てた。一時は参院議員もやったが、惜しくも62歳でこの世を去った…。
 一方、大蔵省の演劇サークルで一緒だった安田たまえと私は、いつの間にか心を通わせるようになっていた。彼女は吉祥寺にある寮で生活しており、デートの時、私はいつも吉祥寺の駅まで送っていた。
 「吉祥寺で新演劇研究所の入団試験があるんだ。君も一緒に受けようよ」
 小柄でかわいい彼女は「いいわよ…」とうなずき、一緒に試験を受け入団した。