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10 大蔵省管理局へ 文化サークルで演劇を始める


TBSのテレビドラマ、丹下左膳に出演
 新型爆弾が、あの「原爆」とは……
 一瞬にして5万人もの命を奪った原子爆弾。私たちが出発してわずか8時間後に広島を直撃したのだった。
 それから長崎……。
 とにもかくにも東京に着いた私たちは、その被害の大きさにおののいた。
 結局、その原爆によって、戦争はまもなく終結への道を歩むことになるのだが、思えば吉田とともに広島に残っていれば…危機一髪の間に生き延びた私の命であった。
 私は広島の重大な事実を知り、新たにこの世で生きる気持ちで、これから厳粛に生きねばと自身に言い聞かせたのである。
 私たちは東京に着くと、しばらく番町小学校で寝泊まりした。
 8月15日。玉音放送があるからと屋上へ集合した。
 ラジオから流れてくる天皇陛下の言葉は聞きづらかった。正直、何を言っているかわからなかった。だが、敗戦であることは間違いなかった。
 私はやっと戦争が終わった…と内心ホッとした。その夜、眠っているとどこからともなく、ブス、ブス、ブスと布を刺すような音がした。はて、何だろうと思ったが、あまり気にも止めず眠ってしまった。
 翌朝、将校たちが2、3人自決しているのが見つかった。まさしく、夕べの布を刺すような音は……何をか言わんや、だった。
 8月17日。私たちは山梨県北巨摩郡小笠原村での勤務を命ぜられ、糧食を担当した。食品の備蓄、貯蔵などの仕事だ。徐々に食糧難になっていく社会の中で、私は仕事柄食べることには困らなかった。食品倉庫にはかなりの缶詰もあったし、干し魚などもあった。私はその中のサケ缶を持ってきて大根おろしとまぜたり身欠きニシンなどを焼いて、残務整理をしている上官たちに食べてもらった。
 そのうちに周りの兵隊たちはそれぞれ復員し、故郷へ帰って行った。私は復員令状をもらわずじまいに、大蔵省管理局へ転官になり、東京の海軍功績調査部へ勤めることになった。そこで海軍の功績調査を担当したが、周りを見て驚いた。東大出身者がぞろぞろ居り、東大出身でなければ給料もそんなにいただけなかったのである。
 これでは私の将来も心配だ、せめて大学に行こうと猛勉強を始めた。受験先は中央大学専門部の法学部。当時、すぐ下の弟の清孝が検察庁の通訳をしていたので、英語は彼に習っていて心配しなかったが、他の科目はかなり根をつめて勉強した。そのかいあって無事合格。私は管理局に勤めながら大学に3年間通った。
 管理局には閉鎖機関課という部署があり、私はそこに配属になって、戦時中、国の補助を受けていた会社などをマッカーサー司令部の命により閉鎖して回った。そのうちに私は三級事務官に命ぜられた。何となく、これで大きな顔ができるような気がしたものである。
 同じころ、職場で文化サークルに入ったが、最初は特別な活動をしていなかった。ところが、文化祭で演劇をやろうじゃないかということになり、仲間を募った。指導は新協劇団の伊達新さんや高柳久子さんがして下さることになった。まずは4人の仲間でスタート。一幕ものだったが、仕事を終えて練習に取りかかった。