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11 萩原氏後援会 国際卓球連会長をもり立てる


昭和61年アジア卓球選手権大会に審判員として
参加(右端杉山義法君、左端本人)
 天然リンクはお天気が勝負である。国体の開催中ずっと、私は今日は晴れるか曇るか気になって仕方なかった。
 あまり晴れ過ぎても、氷が溶けてアイスホッケーなどのフェンスが沈んでしまうのである。私は開催中、試合を見るより空ばかり見ていた。
幸い、天気は崩れず、晴れ過ぎずに無事、終えることができた。そして、事務局総務係を無事務められたのは、山本登氏をはじめ役場スタッフの努力によるが、東宝撮影所の現場体験が生きていたと思う。だが、冬季国体は浅間温泉の活性化につながるだろうと思っていたが、残念ながら期待は見事に外れてしまった。
 国体が終わったあと私は観光課長の辞令をもらった。28歳であった。部下は高校を出たばかりの臨時職員が一人。私は2人で本郷村観光の発展のために奔走した。父は同じ役場で助役だったが、父との接点はほとんどなかった。父は父、私は私の道を歩いた。
  昭和38年、父は役場を退職し、文学活動にいよいよ熱が入った。初代の長野県詩人協会会長にも推され、『近代文学』に詩や小説を精力的に発表した。
 一方、私は卓球で世界選手権を奪った荻村伊智郎君とは、大学卒業後も何かと付き合いが続いた。
 松商学園には世界選手権の後、すぐに来てもらいコーチを頼んだが、一流の選手とはどんなものか、若い高校生にはよい刺激になったと思う。
 会場で私は荻村君に言った。
 「長野県のレベルはどうですか。低いでしょう」
 「何を言っているんだ。俺にも信州の血が流れているんだ。祖父が木曽の楢川村出身なんだ」
 彼は生粋の静岡県出身とばかり思っていたので、私はびっくりした。と同時に彼に信州の血が流れているなんてとてもうれしく思った。さらに親近感がわいたように思う。
  昭和61年には、松本市でアジア卓球連合執行委員会が開催された。松本での宿泊滞在費、会議費用のすべてが地元負担ということだったので、横内祐一郎氏に受け入れ側の会長をお願いして募金をし、委員会は何とかスムーズに運ぶことができた。
 会長国は日本、副会長は中国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、会計シンガポール、事務局中国−というのが主要な構成。会議は後藤淳会長(愛知工業大学学長)、同時通訳は旧知の渡辺武達氏(現同志社大学教授)によって行われ、席上、荻村君が国際卓球連盟会長に推薦され、就任した。
 それを機に私的な「荻村伊智郎国際卓球連盟会長後援会」が発足する運びとなった。その呼び掛けを長野県卓球連盟理事長の野本春夫氏と私とで口火を切った。幸い多くの人が賛同して下さり、1987(昭和62)年10月にはレストラン松本館にて発会式を行った。元世界チャンピオンの江口芳雄氏や婦人の富士枝さん、平島祥男日本卓球協会参与らも出席し、盛会だった。
 席上、彼は「来年(1988年)、卓球がはじめてオリンピック種目に加わります。ソウル大会で一生懸命に役割を果たしたい」と語った。
 そのころ、冬季五輪を長野へ招致しようという運動が展開され、私たちは荻村君を長野県の招致委員に推すことを決めた。幾度となく長野市や県庁に出向いて彼の実績や活動状況などを説明したが、長野市長は「知事と相談するから」と言い、知事は「市長と相談する」と言って、何だか不安だったが、結局は招致委員になり、ホッとした。