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9 深まる友情 何より大切だった仲間たち


世界選手権を取って間もなくの荻原君(中央)と
  荻村伊智郎君は、私たちの、いや日本の大きな期待を担って出発した。
 彼がロンドンへ着いたころ受け取れるように、私は電報を打っておいた。
 『江古田の森は花盛り。みんなお前を待っている』
 多くの友人たちは、おそらく「ガンバレ、ガンバレ」の連呼をし、電報や手紙にもその言葉を託したに違いなかった。ガンバレの言葉は確かに励ましの言葉である。私はこの言葉を使わないで、しかも彼の負担にならない言葉で、彼にエールを送ったのである。
  いよいよ試合。その結果は世界中に報道された。
 見事に優勝。
 彼は世界選手権の頂点に達したのである。私は自分のことのようにうれしかった。もちろん仲間も大喜びだ。
 凱旋して彼は言った。
 「みんなに応援してもらって心から感謝している。電報もうれしかった。江古田の森は花盛りと、電報を受けた時は、みんなの顔が浮かんだよ。負けられないぞと、心を引き締めたし、またリラックスもできたように思う」
 私もこの言葉を聞いて非常に感動した。同時にこれから彼を大事にしたいと思った。
 大学になぜ行ったのか、あらためて聞かれれば、友達をつくりに行ったと答えるであろう。同じ芸術学部の石森史郎君や杉山義法君との友情は相変わらず続いた。夏休みなど、北海道出身の石森君は北海道へ帰るより信州のわが家へ寄り、何日も滞在して穂高の町や美鈴湖などへ案内した。
 また、同じ学部の亀田佐君は、実は戦争中に松本へ疎開していたことがあり、終戦後、松本二中(現県ケ丘高校)で卓球部に入り、里山辺の金宇満司君(現石原プロダクション常務)とダブルスを組んだことがある。さらに、東京に帰ってから都立西高でインターハイに出場し、荻村君とダブルスを組んだ。私は人の縁の不思議さをかみしめて彼とも友好を深めた。
 彼は卒業後、映画監督を目指し、東京オリンピックの記録映画を撮影する際には市川崑監督の助監督をつとめた。現在はスポーツ映画の第一人者として活躍している。
 他にも卓球部でマネージャーだった宇高義之君は、サザエさんのアニメーション映画を作る株式会社グロービジョンの社長となって、子供たちに限りない夢と希望を与える作品づくりに日夜努力している。時折私たちは出会って、昔話に花を咲かせる。
 いよいよ大学を卒業する時期を迎え、どこへ就職するか考えねばならなかった。
 石森君は「広告代理店に行くことが決まった」と言うし、杉山君は「しばらく東京で遊んでそれから考える」と言う。
 そのころ、父は本郷村の助役で家業は祖母と母に任せっきりだった。
 「卒業したら松本に帰ってきておくれ」
 顔を見るたびに母からそう言われていた私は、東京で就職することはとてもできないと、半ばあきらめて松本に帰ってきた。翌朝から旅館の手伝いがはじまり、結構男手のいる仕事があるものだった。
 しばらくすると、映画会社「東宝」から電話がかかってきた。
 「信州でのロケ地を探しているんだ。どこかいい所はないかな」
 学生のころ、東宝でアルバイトをしてたことがあって電話をしてきたのは、その時に知り合った人である。