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6 必死の受験勉強 赤点返上 日大芸術学部に合格


少年兵にあこがれて
 青年期の体は、どこかで力を発散させねば鈍ってしまいそうだった。私にとって発散の方法は、卓球をすることが最善だった。
 熱中すればもちろん腕も上がった。
 昭和23年、学制改革で松本工業学校は、新制の松本工業高等学校となり、夜間も併設された。私は高等学校へあらためて入学し、部活動は卓球を続けた。
 先輩には久保田敏雄さんや武井邦次さん、輪湖次郎さんらがいて、試合も強かった。私たちは試合のあるたびに応援に行った。強敵は何といっても松商学園高校だった。先輩の素晴らしいフォーム(型)を見て、私たちは少しでも近付くように努力した。特にラリーが長く続くような卓球を目指し、試合にも勝ちたいと思った。
私たちの高校には女子生徒がいなかったので、ミックス(男女混合)ダブルスの試合は市立高校や蟻ケ崎高校の女子生徒と組んだ。私は市立高校の金宇道子さんや蟻ケ崎高校の大月妙子さん、豊科高校の青柳保子さんらと組んだ。彼女らとは県大会にも出場。上田市の旅館に滞在した時など、女子生徒が私たちの汗にまみれたユニホームを洗ってくれた。以来、県内各地の試合に出場することが楽しみとなった。試合に出ることはもちろんだが、彼女たちと出会えると思うと心がワクワク、ウキウキしてくるのであった。
 父は私によく言っていた。
 「日本の将来のために、工業技術を身に付けることだ。しっかり勉強しろ」
 ところが、私は学校に行っても卓球をすることと友達と遊ぶことに明け暮れた。社会科の時間はあまり好きでなかったので、出席簿の名前を呼ばれると、
 「ハイ」と返事をするやいなや、教室を抜け出して校庭の桜の木の下でレコードなどを聞いた。蓄音器は伊勢町の井垣良浩君が持ってきて、当時流行していた「東京行進曲」などをかけてくれた。
 先生には見つかっていないつもりでいたが、成績表が親展で親宛に送られた時は、悪いことは出来ないと思った。親展を開けると、何と5段階の中で最低の1点という赤点がついていた。
 父はその成績表を見て何も言わなかった。ふだん感情をあらわにしなかったので本当の父の心が私には分からなかった。
 そのころ、父は本郷村の村長選に出馬し、当選。初代村長に就任していたのである。
 私は例え父親から叱られなくても、一番自分のことを知っているのは自分であることを承知していた。私は今度は頑張るぞと心に決めた。
 そして、二回目の試験は成績もよく、成績表には4点が付いた。
 卒業が間近になったころ、私は進学すべきかどうか迷った。ちょうどそのころ、波田町のいつもお世話になっている中野さんの長男と、県ケ丘高校の卓球部で活躍していた金宇満司さんの兄金宇達善さんが日本大学芸術学部に進学していた。
 金宇さんは、ダブルスで組んだ道子さんのお兄さんである。どちらも知っていたので、進学するなら日大に行こうと思い、受験した。が、高校在学中に赤点をもらっていただけに私は非常に苦労した。社会、英語、国語が受験科目で、必死で勉強した結果、曲がりなりにも合格することができた。日本大学芸術学部へ入学することを父に告げると、珍しく満面に笑みを浮かべた。