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5 松本工業高校へ 浅間でも卓球熱 部活に選ぶ


書道展で入選(本人後列右から3人目)
 小学校の高学年になると、担任も百瀬優雄先生となり、授業も面白く勉強する気にもなっていった。特攻隊の姿をいつも見ているうちに、私は陸軍少年飛行兵に志願しようと心に決め、そのためには勉強しなければ受からないと思ったのである。
 小学校6年になり、志願して試験を受けた。四柱神社の隣の公民館で、身体検査がまずあったが、友達のだれも志願する者はなく、私は一人で行った。
 身長や体重、胸囲などの測定のあとは局部とお尻の穴の検査である。
 「サルマタを下ろせ!」
 たとえ命令とは言え、私は本当に恥ずかしかった。が、しぶしぶ命令にしたがった。
 二、三日して発表を見に行った。張り出された合格者の一覧表に私の名前は無かった。隅から隅までもう一度見たが、やはり…無かった。
 これも「スパイの子」と言われたせいだろうかと、思いたくなかったが、心の隅によぎるものを感じた。
 少年兵になる夢は破れ、進学することにした。が、私の胸中はまだ軍人になりたい思いがあった。それには松本工業学校へ行って武器を作り、戦争に参加する方法があると私なりに考えた。
 小学校を卒業する直前、「銃後職場奉公」と書いて毎日書道コンクールに入賞し、私はその言葉の意味をかなり意識していたこともあった。
 書道塾にはしばらく母と一緒に通っていたが、近所の三浦正義君も来ていたので次第に彼と行くようになった。
 正義君と私は、お互いにマー坊、ター坊と言い合う仲だったが、小学校を卒業したあとはそれぞれ違う道を選んだ。
 マー坊は松本市立中学へ、私は結局松本工業学校へ進学した。
 学校では部活動として何をやるか考えた。日ごろ祖父母や母に激しい運動をやってはいけないと注意されていたので、あまり体に負担のかからない運動部を探した。
 そこで卓球部ならどうだろうと思った。小さな球を追いかけるような運動だから、親たちも許してくれるのではないだろうかと思ったのである。
 もっとも、当時は卓球がいかに大変な運動であるか知らなかった。今思えば全くおかしな判断をしたものである。
 そのころ、浅間温泉の旅館では卓球台を置くところが増え、、街に卓球熱がじわじわと広がりはじめたころでもあった。漬物屋の赤堀さんは自宅の一角に卓球場を造り、近所の人たちも誘い合って卓球をやりに行くようになった。
 竹の湯の調理師野本登さん、亀の湯の主人二木真さん、酒屋の主人内田誠一郎さんらは非常にうまく、先生級だった。赤堀さんの卓球場に行くとたいてい居て、みんなに丁寧に教えてくれたのである。さらにこの3人の方たちを中心にして卓球クラブ「浅間温泉クラブ」が結成された。友達の三浦正義君も市立中学で卓球部に入り、試合でよく顔を合わせたり、赤堀さんの卓球場でもよく顔が合った。
 昭和20年、終戦日。玉音放送を自宅で聞いたが、声がかすれてほとんど何も聞こえなかった。が、私たち家族はただひたすら正座して黙って聞いた。
 戦争が終わり、世の中は一変した。今までの「天皇の赤子」としての撃ちてし止まんの精神と、月月火水木金金の勤労意欲は神風とともにどこかへ飛んでしまった。一夜明ければいきなり軍国主義から民主主義へ180度の改革と解放であった。