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4 世間の目 いったんは死も考えた母


本郷小学校の入学記念
 父はなぜ疑いをかけられたのか、私は知る由もなかった。しかし、今思えば詩人の仲間たちとの交流の中で、政治的な思想に移行していった部分もなきにしもあらずだった。それは祖父孝八への抵抗が少なくともあったのではないだろうか。表面的にはいつも祖父に従順だったが、輪島市に自分を追いてきぼりにしたこと、実母が亡くなったあと、再婚を重ねたことなど胸深く傷ついていたのではなかろうか。現に創作活動のペンネームは実母の高橋姓を名乗ったのも母への思慕が強かったのではないだろうか。
 小学校では相変わらず私は「スパイの子」と言われ続けた。母もおそらく近所で白眼視され続けていたに違いなかった。
 そのころ父は長野の刑務所にいたらしかったが、家のものはだれも父の居所を口にしなかった。
 「今日はね、学校へ行かなくてもいいのよ。いいところへ連れていってあげるから」と、母が私によそ行きの洋服を着せて旅行に出かけたのは、父が居なくなって半年ほど経ったころだった。
 「どこへ行くの?」
 「いいからついていらっしゃい」
 私は母に手を引かれてどこ行きか分からぬ汽車に乗った。一時間くらい乗って駅を降りた。どうやら諏訪の町のようだった。温泉旅館の一部屋に母と私は落ち着いたが、どことなく異様な空気が流れた。母は今までになく優しく、おいしいものも食べさせてくれた。
 翌朝、母の顔がどことなく泣き疲れて腫れているような気がしたが、私は口に出さなかった。
 「さあ、家に帰りましょうか」
 私と母は再び汽車に乗って帰った。
 あとで分かったことだが、どうやらその日、母は私と死ぬつもりで諏訪へ出かけたらしかった。一晩母は考えに考えたあげく思いとどまったのであった。  ただ、私にとっての父は存在感が日ごろなかったので、居ても居なくてもそれほど変わりはなかった。
 「お父さんはどこに行ったの」などと一度も口にしたことがなかった。しかし、大人たちの会話で父が治安維持法という法律に反したことを聞いて、その意味もよく分からなかったが、何か法律に反することをしたのかと子供ながら事の重大さを感じた。
 2年後、父が帰ってきた。昭和18年のことである。しばらく父は家にこもり、散髪するにも知り合いの床屋がわざわざわが家にやって来た。私は父の後ろ姿を見ながら、なぜか父が哀れに見えて仕方なかった。
 昭和19年。太平洋戦争もいよいよ激しくなる一方で、浅間温泉の富貴の湯やホテル井筒には特攻隊の兵士たちが滞在していた。当時私は小学校5年だったが、その格好の良さにただただあこがれた。
 父にそんなことを言おうものなら叱られると思い、私はひそかに特攻隊の姿を見に行った。