目次次ページ

3 詩に熱中した父 同人誌活動でスパイ容疑に


お手伝いさんと一緒に(5歳)
 浅間温泉地の少しはずれたところに「桜ケ丘」がある。桜の名所として村の人たちもよく訪れる場所である。私も外で遊ぶとなると、桜ケ丘だった。
 たいてい従業員が連れていってくれ、父と遊んだりすることはなかった。当時父は本郷村の役場に勤めながら、詩の創作活動をしていた。父は高橋玄一郎という名で詩人の顔を持っていたのである。
 役場から帰ってくると、別室にこもって何か書き物をしていて、とてもそばには近寄りがたい空気が流れていた。
 昭和2年には佐藤惣之助の「詩之家」の同人となり、昭和10年に父は仲間3人で『リアン』という詩の同人誌を発行した。
 私が本郷小学校に入学したのは昭和14年である。学校まで子供の足で歩いて15分ほどだったが、いつも相生の湯の息子の三浦正義君と一緒に通学した。同級生の彼とは学校から帰ってきても遊んだ。ターザンごっこなどをして泥まみれになったり、冬は桜ケ丘で雪ぞりをし、ズボンをびしょぬれにして遊んだ。ぬれたズボンを乾かそうとコタツに潜り込んでいると、母は「お願いだから危険な遊びはしないでおくれ。お前がけがでもすると、おじいさまに私がしかられるのだからね!」と、語気荒く注意した。
 小学校1、2年の担任は原嘉藤先生。有名な歴史学者であることを後に知ったが、呑気で穏やかな先生だった。授業の合間に日なたぼっこをしながら、爪をパチパチと切っておられたが、私が「先生、何をしているの?」と近付くと、「何もしていないよ」と言って、私の頭をコツンとたたいて爪切りをやめた。なぜ私は頭をたたかれたのか…いまだにその疑問は解けない。授業時間の先生の話はあまり面白くなかった。家で本を読んでいた方が余程面白いと思った。
 私が小学校3年になったころ、父は本郷村の収入役に就いたが、詩人としての創作活動は相変わらず続けていた。いや、むしろますます活発になり、『リアン』の仲間の藤田三郎さんや竹中久七さんらと友好を深めていた。なかでも竹中さんは理論家で文学の革命をしようと息巻いていた。『リアン』の表紙絵もシュールレアリズム(超現実主義)画家、吉賀春江さんが担当。私の家には東京からも文学仲間がよく訪れていた。山室静氏や堀田善衛氏などもよく来ていた。
 ある日、特高警察が私の家に突然あらわれ、アッという間に父を連行した。スパイ容疑である。
 祖父も祖母も、母も従業員もことのいきさつが分からぬまま、事態をじっと見守るだけだった。
 うわさは一晩で広がった。
 「香蘭荘の源一さんは、何とスパイだったらしい」
 私が学校に行くと、
 「わーい、スパイの子」とはやしたてられ、石を投げられた。
 「敵国の英語放送を短波で聞いているだろう」
 予想だにしない言葉も浴びた。意味も分からぬまま私は石で傷ついた頭をさすりながら、家に帰った。
 「お父さまを信じましょうね」と、母はまるで自分に言い聞かせるように私を抱き締めながら言った。昭和16年のことであった。