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2 母の病気 治療の礼に父が夢二の絵を贈る


近所の女の子達と(3歳、本人中央)
 旅館の経営は、祖母や母の存在が大きく、彼女たちの力量によって繁盛していた。しかし、母はとうとう体調を崩し、病に伏してしまった。
 「膿胸です。ゆっくり静養した方がいいでしょう」
 かかりつけの片端の岩附先生は、母の病状からそう診断した。
 父源一は口にこそ出さなかったが、母の苦労を十分に承知していた。
 「先生、どうかはる子を助けてやって下さい。世界中で一番いい薬を飲ませてやって下さい」
 父は懇願するように医者に言った。
 祖母は「さ、遊びに連れて行ってやるからおいで」と、浅間温泉から出ている路面電車に乗って、国府町へ私を連れて出かけた。
 国府町はにぎやかな町で行き交う人々も生き生きしており、深志公園ではサーカスなども催されていた。祖母は「小屋の中は空気が汚れているからね」と、決して中には入れてく れなかった。子供心にも見たくて仕方なかったのだが…。
 通りを過ぎると、昔から取引のあった漆器店の「吉(カネキチ)商店に立ち寄るのが常だった。店には3歳上の祥ちゃん(竹園祥一さん)がいて、私は彼と夢中になって遊んだ。
 岩附先生のおかげで母は見る間に元気になった。父は余程うれしかったのか、蔵から何やらお宝を出してきて岩附先生に差しあげた。
 「はる子を助けていただいて本当にありがとうございました。これは夢二の絵ですが、どうぞもらって下さい」
 浅間温泉に竹久夢二がしばらく滞在したことがあり、その折手に入れた絵で、当時の父にとっては最高の宝物だった。
 母は元気を取り戻すとすぐに旅館の女将としての仕事をはじめた。そのころ従業員は北信や安曇方面から住み込みで来ており、貧しい家の娘や息子が多かった。食べさせてもらって夜間の小学校へ通わせてくれればよいという条件で働く者が多く、人件費もろくに払わずに雇っていたように思う。
 時折、私は母に連れられて玉枝ばあさまの妹の嫁ぎ先の波田村へ遊びに行った。
 波田村の親せきは戦争中、村長もやったことのある中野家で、なかなかの旧家であった。子供が5人。私がひとりっ子だったせいか、大勢の女の子や男の子の中に入れてもらってうれしかった。行くと二、三日泊まってくるのだが、食事を箱膳で囲炉裏のまわりで食べるのが珍しく、家の風習の違いを子供ながらしみじみ感じた。
 長女の久子さんは私より10歳上だったが、「チャコねえ」と呼び、私はひそかにあこがれた。また、淑子さんという私より少し上の姉さんもおり、私たちは近くの池で魚釣りをして楽しんだ。
 家では学校から帰るとあまり外に出て遊ぶことがなかっただけに、とても私はうれしく楽しくて仕方なかった。
 母が私を連れて行ったところは他にもある。
 母の大町女学校時代の同級生が嫁いでいる「大治茶店」だ。そこには私と同じくらいの寺村隆典さんがいて、本をたくさん持っていた。「少年倶楽部」という雑誌や山中峯太郎、海野十三の小説が本棚にずらりとあり、私は特に山中峯太郎の「亜細亜の曙」「大東の鉄人」「敵中横断三百里」などを借り、学校から帰るとただただ夢中になり目を皿にして読んだ。これらの冒険小説の主人公は今風に言えば「007」の映画に出てくるジェームスボンドばりのすてきな男性だった。
 こうして私の読書熱も少しずつ上がり、次第に私なりの文学への目覚めが生じてきたのである。