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1 誕生 長男亡くし家族中から大事に


1歳のころ母と
 信州の五大温泉郷の一つ、浅間温泉。その歴史は石器時代から温泉の恩恵に浴していたとも言われ、温泉街からは縄文末期の大甕(かめ)も出土している。
 また、この地を支配していた豪族犬飼氏の名を取って「犬飼の湯」といわれた時代もあった。
 その後、松本城の天守を築いた石川康長がこの地に御殿を造り、その一族が領地170石と屋敷を与えられて保養のかたわら浅間温泉管理をするようになったのである。以来、松本藩と深いかかわりを持つようになり、城主専用の湯、士族の湯、庶民の湯に分けられ、この習慣は江戸時代の末期まで続いたのである。今でもたまに「あそこは士族の湯だ」と聞くことがあるが、浅間温泉には綿々とした歴史が生きている。
 そのような浅間温泉の一角に私は生まれた。
 父は小岩井源一、母ははる子といった。1932(昭和7)年10月、二男として誕生したが、長男はすでに2歳で病死していた。両親は祖父孝八が経営していた温泉旅館「香蘭荘」を手伝っていたが、跡継ぎの最初の子を亡くしていたこともあって、私を異常なほどかわいがった。祖母の玉枝も健在で、とにかく私は家族中で大事にされた。
 祖父孝八は、小岩井家の四男だったが、縁あって石川県輪島市の高橋家へ養子に行っていた。それは旅館と取引のあった国府町の漆器店の世話によるものであったが、長男の源一が生まれたあと妻は亡くなってしまった。そこへ孝八の兄もたまたま亡くなり、浅間温泉へ「帰って来ないか」とさんざん言われ、孝八は責任を感じて帰ることを決心したのである。
 一人息子の源一を置いて帰って来た孝八は兄の未亡人と結婚した。ところがその未亡人も亡くなり、後に玉枝と結婚したのである。
 一方、輪島に置いてきぼりにされた源一は高橋家の祖父母に育てられていた。
 「非常に寂しく、亡くなった母をしきりに思った」という源一…。だが、中学生になったころ、孝八に松本へ呼び寄せられて一緒に暮らしはじめた。
 香蘭荘は、そのころ「傷の湯」とも呼ばれて朝鮮や満州からも湯治客が訪れにぎわっていた。
 孝八はなかなか粋な趣味を持ち、茶道や華道をたしなみ、骨董や絵画なども収集し社交的でもあった。
 一人息子の源一は輪島から来た当初は、借りてきた猫のごとくおとなしく、どことなく影を引きずっている様子だった。そんな源一も成人して嫁を迎えることになった。当時、孝八の華道の先生だった先代上條香月さんから、
 「大町の松葉屋さんにいいお嫁さんがいますよ。会ってみませんか」とすすめられ、とにかくお見合いをした。はる子というその女性は大町の小町と言われるほど美しく、しかも優しかった。源一はどこか輪島で死別した母の面影をそこに感じた。@改行
 「結婚してほしい」と迷わずに申し込み、源一とはる子の生活がスタートした。実家が旅館業のはる子は、すぐに香蘭荘の生活にも慣れた。しかし、祖父の孝八が意外にも厳しく、夫への気遣いより大変だった。
 孝八は午後5時になると必ずふろに入った。出るころを見計らって、はる子はお茶の用意をし、それが過ぎると夕食の準備をした。それらの時間はきちっと決められていて、少しでも遅れようものなら、孝八は不機嫌になり、行き先も言わず出ていってしまうのだった