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13 政治改革 併立制採決に棄権して抵抗


自民党3役の一人として出席した会議
 政治家としての仕事は地元の発展のために尽力するときと、日本のために微力ながらも懸命に取り組む場合がある。
 私が日本のためにと言えば大げさになるが、日本文化のために努力したものがある。
 「国際日本文化研究センター」設立のときだ。
 中曽根康弘氏が総理で、私は自民党政務調査会の副会長だった。日本文化を国際的な視野に立って研究する施設をつくってほしいと、いわゆる京都学派の人たちをはじめ内外の研究者から要望が出された。
 中曽根首相も、国際化の時代に日本文化の発信基地が必要と、強く実現への意向を表明した。
 政務調査会に「日本文化研究・交流に関する小委員会」が設置され、私が委員長になった。ドナルドキーンさんなど多くの関係者の意見を聞き、強い反対意見も多かったが、押し切ってセンターをつくることに決定した。
 梅原猛氏が初代所長に任命され、昭和62年に京都市に創設、平成6年に完成した。
 さて、政治腐敗がたびたび世間を騒がせる。その要因は前にも述べたが、政治家自身のモラル、社会的な慣習による政治家の負担の大きさなど、さまざまにあると思う。
 90(平成2)年、海部俊樹総理の時、私は党総務会長に就任した。幹事長は小沢一郎氏、政調会長は三塚博氏だった。
 その直前リクルート事件が起き、政治改革を求める世論が高まっていた。そこで、総務会は「政治資金規制法改正案」「公選法改正案」「資産公開法案」などをまとめ、国会で成立させた。
 さらに、三年後には金丸事件が起き、選挙制度を含む政治改革が叫ばれるようになった。
 94年(平成6年)細川内閣の時、政治改革四法が成立。中選挙区制から小選挙区制に変わり、比例代表制を併用することになった。カネのかからない選挙を目指したのだが…、問題は多い。
 私はその年6月、区割り法案が衆議院政治改革特別委員会で審議された時、重複立候補の敗者復活について質問した。
 「小選挙区で落選し、比例で当選の場合、中には法定得票に達せず供託金を没収された人が当選するケースも出る。これは憲法に違反するのではないか」
 つまり「国民は正当に選挙された代表者を通じて行動し…」という憲法の前文に対してである。
 しかし、一日も早い選挙制度の改正を望む世論が多く、私の意見に賛成する議員は少なく、本会議の採決を私は棄権して抵抗した。「風が吹くと、その流れに逆らうのは難しい」と痛感した。
 一昨年あたりからときどき体の不調を感じはじめていたが、時間に追われて検査を受けずそのままにしていた。
 昨年、変調に抗しきれず医師の診断を受けたところ右目が「黄斑部変性症」、それが動脈硬化によるもので政治活動を続けるのは無理という診断だった。
 永年、私を支持してくださった方々の期待に添えないのは申し訳ないと思ったが、穂苅甲子男後援会長、神澤邦雄中信経済研究会長、棚谷信雄中信建設振興会長、上野紘志GRネットワークフォーラム会長の了解を得、後援会の支部長会議にはかり、引退を発表した。1996年(平成8年)5月のことだった。