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12 松本空港整備 もめた札幌路線 今やドル箱に


郵政大臣就任祝い(山形村会場)
 郵便、貯金、保険。この3つを郵政三事業という。特に私の在任中、郵便の健全化を目指し累積赤字を解消した。
 当時マル優廃止が一番の政治問題だった。国の将来を考えてこれを決断したが、高齢者には老人マル優制度を作った。さらに外国電話会社の参入など電気通信事業の自由化に出来る限りの努力をした。電気通信の自由化が、今の情報通信の活況につながっている。
 地元ではタコ足状態といわれる信州大学の北条舒正学長から遠隔地を結んで講義が受けられるようにしてほしいとの強い要望があり、キャンパスの間の画像通信の導入に踏み切り、平成5年に完成した。
 松本空港についても感慨深いものがある。
 大蔵政務次官の時だった。運輸省に全国の地方空港から滑走路の拡張拡大の申請が出され、それぞれ地元の議員たちは「わがふるさとに」と主張した。だが、認可には限りがあり、議員たち自身で調整しようとしたが、つかみ合いになるほど争ってうまくいかなかった。
 そこで党内に空港整備促進議員連盟ができ、会長には島根県選出の細田吉蔵氏が就任、調整することになった。
 松本空港はそれまでYS11機が大阪まで飛んでいたが、天候に左右されやすく「飛行機の飛ばない飛行場」と冷やかされていた。
 これではせっかく空港があっても役に立たないと、拡張を望む声が大きくなっていた。
 空港整備議連は、当時一番遅れている松本が整備されれば全国の空港整備が終わるということで、私が事務局長(後に会長)に推された。当時信州大学学長だった加藤静一氏のご子息晋氏が運輸省の航空局に勤務されていたので、いろいろとレクチャーを受けて助かった。
 一方、松本の地元では空港の拡張に反対の声も強く、抗議の手紙や資料も送られてきたが、ここで後退しては、もう空港ができないのではないかと思い、前向きな取組を続けた。
 実際話を進めていくと、土地の整備、鉄塔の移転問題、計器の作動が困難などいくつも検討、解決しなければならないことがあった。関係者のご努力で難題は乗り越えられ、空港は拡張、整備され開港に至った。
 路線をどこに開設するかも大きな問題だった。
 大阪、福岡への路線はすんなり決まったが、札幌路線は反対が強かった。札幌は同じ雪国で、果たして乗客があるかどうかということだった。
 1993(平成5)年、衆議院が解散された日、松本の有賀正市長と百瀬常雄議長が、JAS(日本エアシステム)本社へ案内しろ、と私のところへやって来た。
 「今日は解散があるかも知れない」と、私はためらった。「あなたの選挙より、路線の方が大事だ」という。ひどい話しだ。
 とにかく真島健社長と舩曳寛真専務(現社長)を訪ねて要請。結局、東急の相談役でJAS会長の田中勇氏が最後の英断を下した。
 「札幌路線は人が乗らなくなればやめちゃえばいいんだ。とにかく飛ばしちゃえ」
 この一言で路線は開通した。今、札幌路線は松本空港のドル箱とのことで、あの時、有賀市長の押しの一手で頑張ってよかったと本当に思う。