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11 官房副長官 各国首脳と対面 東京サミット


中曽根首相と訪米、レーガン元大統領と会談
(ホワイトハウスの閣議室で)
 は置かれた環境の中で努力していけば、環境が変わってもいつかその経験が必ず役に立っていくものである。
 私も銀行員時代があった。15年と1カ月、富士銀行にお世話になった。このとき培った経済知識は議員になって大いに役立った。1975年、生糸の国際相場が下落、長野県内の養蚕農家が危機に見舞われたとき、農家や、業界の意見を聞いて、直ちに通産省と掛け合い、輸入制限措置を取るように努力したのも、長い間に得た知識から判断したものであった。
 1975(昭和50)年夏ころから、不況の波が押し寄せるようになった。景気変動の波を最小限に抑えようと、「経済安定基本法案」を党に提出した。これは西ドイツの「経済成長促進法」を、日本の情勢にマッチさせて作ったものだ。党内をはじめ、各国で評価されたが、まだ日の目を見ていない。今後、財政再建法を作成する際は、この考えを組み入れてもらいたい。
 政治信条はどういうものかと、よく聞かれた。私はその度に「清潔と信頼の政治」と答えてきた。
 父が政治家のころ、よく口にしており、私もまさにその通りと確信、信条にしてきた。
 政治家として歩くには確かにお金がかかる面がある。ロッキード疑獄やグラマン・ダグラス疑獄など政治家と財界とが癒着した事件が世間を騒がせた。
 政界の浄化は、抜本的な政治改革をしなければならないが、最終的には法改正だけでなく政治家のモラルの問題と思う。社会的な冠婚葬祭などの習慣も変えていかなければどうにもならないのではないだろうか。
 中曽根康弘氏が鈴木善幸氏のあと総理大臣に就任したのは1982(昭和57)年だった。20代のころの中曽根氏のことば、「必ず総理になる」が、現実になったのだ。
 3年後、第二次中曽根内閣が成立したとき、後藤田正晴氏が官房長官、私は官房副長官に任命された。
 官房副長官というのは内閣の要で、行政も党務も国会対策もすべての情報が集まり、その処理をしなければならない。多くの事務的な用件の取捨選択も官房副長官の役目だ。
 特に、私の在任中は、アメリカ、カナダ訪問、東京サミットをはじめ、天皇ご在位60年、選挙法の改正など重要案件がめじろ押しだった。
 東京サミットは1986(昭和61)年に開催され、各国の大統領や首相が来日、身近に接することができた。レーガン氏やミッテラン氏、サッチャー女史に会って思ったのは、皆「とても大きい」ということだった。
 それは「偉大さ」もさることながら、権力者が持つ独特な雰囲気から来るものだった。
 レーガン大統領が「核のボタン」を持参していたのには驚いた。何かあればいつでも押せる「ボタン」。それは現実に存在した。
 サミット後の7月、衆参同日選挙が行われた。衆議院は自民党が304議席を獲得し圧勝した。
 第三次中曽根内閣が成立し、私は郵政大臣に起用され、初めての大臣就任に緊張した。