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10 文部政務次官 スポーツ好き 海部氏と施設造り


文部政務次官時代、海部文部大臣や故西沢知事と(松本市内)
 あれほど人気のあった田中角栄氏は、残念ながらロッキード疑獄事件で逮捕され、国民の自民党に対する信頼は薄れていった。戦後初の任期満了による総選挙が76(51)年暮れに行われた。自民党は保守系無所属当選者を入党させ、保守勢力の増強を図ったが、野党の勢力も強まり、与野党伯仲時代の幕開けになった。
 選挙後成立した福田内閣で、私は文部政務次官を拝命した。文部大臣は海部俊樹氏であった。
 実は、海部氏に最初に出会ったのは初当選の時だった。
 「唐沢さんの息子さんですね」と声を掛けられたのがはじまりだった。
 「僕は海部俊樹といいます。お父さんは唐沢俊樹さんでしたね。お父さんのお陰でみんなに早く名前を覚えられましてね、感謝しています。同じ俊樹でしたから」
 以来、親しくさせてもらっていたが、文部大臣になったときも是非政務次官として来い、ということであった。
 77(昭和52)年夏、松商学園が高校野球で甲子園に出場した時のことだった。海部文部大臣が開会式の始球式に出席。その時のキャッチャーは第一試合に出ていた松商学園の野沢博選手だった。
 大臣と政務次官は一緒に行動しないことになっていたが、この時は一緒に観戦。海部夫人も同席し、松商を応援してくれた。が、残念ながらその試合は負けてしまった。
 松商学園は1991年春の選抜大会で準優勝した。その直後、江原正一郎野球部後援会長が当時首相になっていた海部氏に「是非額を頼んでほしい」と言ってきた。お願いすると、海部首相は『向上無限』と横額に書いてくれた。
 そのお陰かどうか、夏の甲子園でもベスト8に残り、秋の国体では優勝した。
 野球部の寮が新築された時、『向上寮』と名付けられたのも海部氏が贈った額からのもので、字は私が書き、今も寮に掲げられている。
 話は戻るが、海部氏と私はスポーツが好きで、当時二つのスポーツ施設を新設することにした。ちょうど、モントリオール・オリンピックで女子バレーが活躍し、一般にも盛んに行われていた。そこで小さくてもよいが梁(はり)のないバレーボールが出来る体育館を造ろうということになった。日本のあちこちにミニ体育館を造りはじめたが、第一号は松本の庄内に建設した。
 もう一つは、子供は風の子太陽の子、で野外でスポーツができる施設を造ろうということになった。その第1号が、白馬村や本城村の「グリーン・スポーツ施設」である。
 海部氏は、水泳が得意で外国に行ってもすぐプールに入った。「時差ボケをなおすため」とよく言っておられたが、私はジョギングをして体を疲れさせ、よく眠ると時差ボケがなおると主張した。「体を疲れさせることに変わりはないね」と二人で笑った。
 文部政務次官時代には苦い思い出が一つある。
 そのころ、埼玉県浦和市で越境入学が問題になっていた。たまたまTBSテレビに出演。越境入学はよくないと力説したところ、司会者が、「政務次官も小学校のころ、越境入学しておられましたね」と言ったのには驚いた。返す言葉もなく苦笑してしまったが、やはり越境入学は一考を要するのではないか。