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9 日中国交正常化 「長野は有名…」周恩来氏笑顔で


川崎訪中団のメンバー(右端本人、隣川崎氏、左端は向山氏)
 沖縄返還協定の調印が行われたのは1971(昭和46)年、翌年には沖縄が復帰し「沖縄県」が復活した。
 一方、当時政府は中国との国交回復には極めて冷淡で、松村謙三氏や藤山愛一郎氏らが友好使節団となって細々と中国との関係を保っていた。
 佐藤栄作首相は親台湾派といわれていたが、松村氏らのそうした動きは黙認していた。マスコミはそんな首相を「アヒルの水かき」などと評していた。
 沖縄返還後、世論は佐藤首相の長期政権に飽きを来していた。官僚政治に代わるものを望みはじめた。田中角栄氏を待望する声が起き、一世を風靡(ふうび)したのはこの風潮による。沖縄復帰2カ月後の1972(昭和47)年、田中内閣が成立した。
 田中首相は、就任するとすぐ日中国交の正常化に向けて中国訪問を計画した。その田中訪中が実現する一年前、私は川崎秀二氏を代表とする“川崎訪中団”の一人として中国に行った。
 一行は、他に菅波茂、坂本三十次、水野清、吉田実、山下徳夫、向山一人、渡部恒三の各氏。訪中団は年齢こそそれぞれ違っていたが、当選回数一回か二回の議員団で、いずれも党幹部が手を焼く反主流派のいわゆる“若手議員団”であった。
 訪中最大の目的は周恩来首相との会談だったが、東京を発って14日目になっても中国側から連絡がなく、落ちつかない毎日を送った。
 ようやく15日目の午後、会談が実現した。周恩来首相は私が長野県出身であることを話すと、「長野県は有名なところですね」と笑顔で答えた。これは、県内に日中友好運動を進めている人が非常に多いことを、あらかじめ調べ知っていたのだ。
 一カ月の中国訪問の後、72年9月、日中国交正常化が実現、12月に総選挙。2回目の立候補で多くの支持を得て当選した。
 絶大な人気を持っていた田中首相が、次第に凋落の兆しを見せはじめた。月刊誌『文藝春秋』に首相の金脈、人脈が暴露され辞任に追い込まれたのは、それから間もなくの74(昭和49)年であった。
 三木武夫内閣が成立した。そんなおり、自民党にとって喜ばしいことがあった。佐藤元首相がノーベル平和賞を受賞した。だが、その半年後には亡くなられてしまい、残念であった。
 佐藤首相時代、“若手議員団”として批判したが、国会活動、地元とのパイプ役、議員同士の相互理解などキャリアを積んでいくうちに佐藤氏のことがだんだん分かるようになった。
 75年、大蔵政務次官を拝命した。当初、私は建設政務次官を希望していたが、神澤邦雄中信経済研究会会長のすすめで大蔵に変えた。参議院側の大蔵政務次官は、田中角栄氏の推輓(ばん)で細川護熙氏が任命された。
 当時、三木氏が総理、大蔵大臣は大平正芳氏だった。大平氏は名前の通り大所、高所からものごとを判断する人だった。
 細川氏とともに大臣の代理をしたが、主に雑用は私がやらされ、彼はあまり仕事はしなかった。
 しかし、細川氏はゴルフもテニスも上手でスタイルもよく、行く先々で多くの人に囲まれていた。こせこせしていなくて、どこへ行っても貴族の感じのする人だった。