目次前ページ次ページ

8 議員1年生 乱闘国会の洗礼 アザだらけに


中曽根康弘、石坂浩二氏や地元支持者と
 「沖縄の返還なくして戦後は終わらない」と佐藤栄作首相は、沖縄返還に力を入れていた。
 田中角栄幹事長は、顔を見るなり握手だ。
 「政治家はね、30歳代で当選してこなければ、あとの道が険しいよ」
 私が40歳直前に当選したことを十分に承知しての祝いのことばだった。
 お世話になった中曽根康弘氏を訪ねた。
 「最後まで心配させるなよ」
 当確がなかなか出なかったのを、ひやかしながらテレビを見ていたという。にこやかな笑顔に心が救われた。
 かくして衆議院議員一年生。中曽根派に所属してスタートを切った。
 これまで父を通してしか知らなかった中曽根氏は、若いころ青年将校といわれ、姿勢がよく、背も高く見た目にも素晴らしい人だった。エピソードもいろいろある。1947(昭和22年に初当選。20代だったが、この時の選挙では自転車に白いペンキを塗り、うしろには日の丸を立ててまわった。
 一体どうするつもりか、と地元の人が聞いたところ、「おれは総理大臣になる」。みんな頭がおかしいんじゃないかと言い合ったというが、現実に総理になってしまった。
 中曽根氏は実によく勉強し、日程が空くと必ず読書をしていた。人づかいもうまく、長良川の鵜匠のようなところがあった。一見、冷たい人のように思われているようだが、なかなか人情味があり、気配りができる人だった。
 私が初当選の時から、実質的な中曽根派が成立し、一期生となった。
 議員会館は、父が議員時代に使っていたのと同じ部屋になった。まさか同じ部屋に入居できるとは思っていなかっただけに感慨無量だった。
 宿舎は青山。2DKの部屋はゴキブリが出そうな湿気の多いところで、当時はまだ冷暖房はもちろん、設備が整っていなかった。
 妻と子供たちは松本で借家住まいを、母は横浜の日吉の自宅で一人で暮らした。住むところは違ったが、みんなどこか一体感があった。一つの目的のもとに生活していた。
 九州出身の妻にとって松本の生活は大変だったと思う。寒さが厳しいし、友人もいない。寂しい思いをしたのではないだろうか。毎朝、はるか向こうの槍ケ岳を見て話し掛けていたという。
 「私の友達は槍ケ岳よ」とよく妻は言っていた。
 そのうち、子供が学校へ入りPTAの人たちと仲良くなり、松本の土地にも慣れてきたようだった。
 「商家の娘だったから、選挙の“せ”の字も知らず、戸惑うことが多かったんじゃないかな」
 いよいよ国会活動が始まった。議員になる前、「乱闘国会」や「強行採決」という言葉を聞いていたが、早速その乱闘国会を体験した。当時、一年生議員は“乱闘要員”でもあった。
 沖縄復帰特別措置法成立の時だ。衆院特別委員会が始まる前に先輩議員から申し渡された。「今日は乱闘になると思うので、ネクタイはゆるめ、万年筆や財布は持たないように」。
 案の定乱闘になった。反対派の議員が委員長に採決無効を求め詰め寄ると、委員長を守るためにガードするのだ。もみくちゃにされ、だれからともなく頭を殴られ、足を踏まれ、家に帰るとアザだらけになっていた。