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7 政治家の道 39歳の転身、206票差の滑り込み


初当選にわいた戦選挙事務所
 思えば父も「志半ば」、のところもあるはずだ。みんなと一緒に勉強しながら、政治家の道を歩いてみようかと、心が動いた。
 1969(昭和44)年の総選挙に向けて準備をすることになった。15年間の銀行員生活にピリオドを打ち、家族中で松本に引っ越した。妻ともよく話し合い、どうにか納得させた。
 上の息子は小学校2年、下の息子は保育園児だった。町中に私の顔写真のポスターが出ると、息子がびっくりして学校から帰ってきた。
 「僕、恥ずかしいよ」というのを聞いて、
 「だれより恥ずかしく思っているのは、お父さんだよ」と話すと納得したようだった。
 出馬は自民党中曽根派からと決めた。
 1965(昭和40)年、河野一郎氏の死後、中曽根康弘氏が河野派の一部を継承して新政同志会を結成したが、その折り、座長に野田武夫氏、顧問に父がなるなど、生前、父は中曽根氏と交流があったためだ。
 選挙戦に入ると、毎日が緊張の連続になった。当然とはいえ、父の応援とは違って自分自身のこととなると、大変さが身に染みた。
 応援には東京からも大勢の人たちが駆け付けてくれた。
 石原慎太郎氏は弟の俊三が声をかけて来松。武蔵高校の同級生で後に代議士となったNHKの依田実氏が評論家の五代利矢子さん、俳優の石坂浩二さんを呼び、選挙戦は盛り上がった。
 石坂さんは当時、NHK大河ドラマで上杉謙信を演じ、人気は絶大で、市民会館で開いた総決起大会は、ステージの上まで人が集まった。「これなら大丈夫」と支持者たちは喜んだ。
 ところが、あとで耳に入ってきたのは、
 「石坂浩二の顔を見にいったんですよ」だった。
 父の後援者の同情もあったし、陣容として事務長に小林庄司氏、選対部長に上野明正氏、後援会長に増田要次郎氏、最高顧問には池上隆祐元代議士がなったが、大変苦しい戦いであった。
 年末ぎりぎりの27日、いよいよ投票。妻と投票を済ませ結果を待った。この待つ時間が長い。刻々と得票結果がテレビやラジオから流れ出すと、体中に緊張感がみなぎった。
 なかなか票が伸びない。もちろん「当確」は出ない。
 テレビから自民党の票が伸びているというアナウンスが流れる。過半数を超えそうだという。
 長野4区は開票率80%になったが、あと一人の当確が出ていないのだ。ここまで来れば、天命を待つしかなかった。
 最後の得票結果が出た。206票差で辛うじて当選。
 「バンザイ!」
 あちこちで歓声が上がった。初当選を喜ぶ人たちで選挙事務所はごった返した。
 握手を交わし合い、しみじみと当選の実感を味わった。浮動票もかなり獲得できたと聞き、うれしかった。
 その時39歳。政界への第一歩を踏み出した。
 選挙が終わるとすぐに上京した。まず自民党本部へあいさつ。佐藤栄作総裁、田中角栄幹事長。303議席を獲得した自民党は活気に満ちていた。