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6 父の復活と死 身近で強まる政界入りの誘い


横浜の自宅で両親、長男俊哉、二男真二と
 安保問題をめぐる騒然とした中で岸信介内閣は総辞職、後継の池田勇人内閣のもとで行われた1960(昭和35)年選挙で、父は見事にトップ当選を果たした。
 3年後の選挙でも、父は多くの支持を得て当選した。
 次は佐藤栄作首相が、共和精糖事件など一連の“黒い霧”問題のなか、1966(昭和41)年末から翌年初めにかけて三年越しの解散、総選挙を行った。
 この時、父は病気で入院していた。私は富士銀行数寄屋橋支店に勤めており、松本の支持者からは「帰って来ないか」と頻繁に連絡が入るし、私も応援に帰りたかったが、どうにもならない。
 父も病床でやきもきしている。
 「死んでもいいから、松本に帰って選挙をやりたい」
 振り絞るような声で、父は訴えた。
 とうとう私は支店長に相談した。支店長は大物だった。
 「唐沢一人、ここにいなくても支店はびくともしない。すぐに松本に帰ってお父さんのために頑張りなさい」
 一カ月の休暇をもらい、その足で松本に帰った。早速、横内与三次郎事務長の指令のもとで、街頭演説や立ち会い演説のため選挙区をまわり、「父をよろしく」と頭を下げた。
 投票日になっても父は選挙区に帰れなかった。が、開票の結果、当選。
 父は満面に笑みを浮かべて喜んだ。が、一カ月半後の3月、75歳で亡くなった。
 結局、小沢貞孝氏が繰り上げ当選した。
 考えてみれば父は7回の選挙で3回落選している。中でも衝撃的だったのは現職大臣で落選したことだ。敗因はいまだに分からない。父はもちろんのこと支持者たちもただ驚くばかりであった。
 1968(昭和43)年、東大医学部のストが発端となって各地に大学紛争が拡大し、全学連が分裂。社会情勢が不安になる一方で、その年7月7日の参議院議員選挙では、多くのタレントたちが立候補した。
 特に、作家の石原慎太郎氏や青島幸男氏は、独特な選挙運動で挑戦、見事に当選した。
 石原慎太郎氏は『新しい世代の会』という組織をつくり、弟の俊三が東京でその会に所属、活動をしていた。当時弟は白馬観光開発の取締役をしていたが、やはり父の影響もあって政治に関心を持っていた。
 石原氏の選挙方法は、今までにないやり方でアメリカのケネディー大統領の選挙戦術を取り入れ、評論家の飯島清氏がプロデュースしていた。握手戦術やジャンピングスピーチなどをして大衆に強烈な印象を与え、見事に当選した。
 青島氏はほとんど選挙運動をせずに当選。不思議な現象だった。
 父が亡くなったあと、私は亀戸支店次長となって安定した銀行マン生活を続けていた。そんな折り、松本の父の選挙区でお世話になった人たちが東京に訪ねてきた。
 「間もなくの総選挙に、ぜひ立候補しなさい」
 一生、銀行マンで過ごすつもりだったし、結婚するとき妻に「選挙には出ない」約束をしていただけに、戸惑った。そこへさらに、強く政界入りを勧めてくれる人があった。中曾根康弘氏である。