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5 父の浮沈 念願の政界入り 法相で落選


結婚式で
 父は政界への出馬をあきらめず、東京駐車場株式会社の社長をしながら準備を進めていた。
 1953(昭和28)年2月のことだ。衆院予算委員会で時の首相吉田茂氏が右派社会党の西村栄一氏の質問に「バカヤロー」と発言。野党の不信任動議に対し解散権を発動し、4月に総選挙が行われた。この時、父は改進党から出馬したが、落選。また浪人生活をおくることになった。しかし、父の「必ず政界に出る」という信念は変わらなかった。
 「激動の政局」という言葉をよく聞くが、このころは特に激しかった。例えば、自由党を結成し、1946年の初の民主選挙で第一党総裁になりながら公職追放になるなど「悲劇の宰相候補」といわれた鳩山一郎氏。53年の選挙直前に自由党から分かれたが、間もなく復帰、翌年11月、改進党と合同して民主党を結成し総裁になった。
 同12月、6年にわたる吉田自由党内閣が、汚職や乱闘国会の末に総辞職。ついに鳩山内閣が誕生した。
 1955年(昭和30)2月選挙は、鳩山ブームの中で行われた。父も民主党から出馬して、初めて当選した。民主党は第一党に伸び、自由党は凋落。その秋、保守合同で自由民主党を結成、「55年体制」ができ上がった。
 父の初当選に家中が喜びにわいた。私は銀行マン生活であまり手伝いはできなかったが、父の念願がかなってうれしかった。
 首相が鳩山から石橋湛山、岸信介氏へと代わった57(昭和32)年。父は法務大臣に任命された。しかし、就任1年余で衆議院解散、総選挙となった。この時、父は現職の大臣でありながら落選した。
 また浪人生活を送ることになったが、学生時代から親しくしていた五島慶太氏のご縁で東急の支援を得て、故郷に事業をおこした。昭和33年、白馬観光開発会社の会長に、翌年には東洋食品(現ゴールドパック)の会長に、36年には信州工業高校の名誉校長になった。
 父は「人との出会いは大切にしなければならない。いつ、どんな時に助けられるか分からない」とよく言っていた。五島氏とは、富井政章男爵で家庭教師をした先輩、後輩の関係で知り合ったというが、出会っていなければ違った道になっていたかも知れない。後に父は子息の五島昇氏の仲人をつとめたほどである。
 落選後の父は意外にも元気で、たまに出会うとむしろ私の結婚を心配し、「そろそろお見合いでもしたらどうだ」と、一つの話を持ち出した。
 「元内務大臣の後藤文夫先生の親せきに、年ごろの女性がいるのだが…」
 その人は福岡市に住む22歳の真喜子といった。
 後藤文夫氏の媒酌で1959年(昭和34)10月に結婚。その時「親とは同居しない。選挙には出ない」ことを約束させられた。同じ年、皇太子殿下と美智子妃殿下(現天皇、皇后)が結婚。世の中の景気もよくなり、日本は「岩戸景気」に活気づいてきた。
 私はのんびりした銀行員生活を続けていた。