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4 父の選挙応援 手を振り頭下げ すべてが初めて


父俊樹と(21歳ころ)
 1945(昭和20)年、中学3年になっていたが7年制の学校だったので、受験勉強はしなくてよかった。まもなく戦争終結の時が来るなど、微塵(みじん)も考えず、軽井沢で天気図を書き畑を耕す毎日を送っていた。
 8月15日、玉音放送を軽井沢で聞いた。先生たちの泣いている姿に戦争の終わったことを実感した。「よかった、よかった」と思った。正直なところ戦争が終わった安ど感と、これで天気図も書かなくてすむし、畑も耕さなくともよいという解放感が何ともいいようがなく湧いた。横浜に戻ったものの食べ物が少なく、ひもじい毎日だった。
 父は陸軍大将東条英機内閣時代の内務次官であったことから、公職から追放され、浪人生活を送ることになった。
 父の浪人生活は、二・二六事件に次ぎ二度目。「何とか生活はできるから、子供たちは学業に専念するように」と、父は励ますのだった。
 経済的にはもちろん困っていたが、大学に行かせてくれると聞いて勉強した。
 在学していた武蔵高校は、校風が「受験、受験」と大騒ぎするでもなく、みんな淡々と勉強していた。
 春には同級生とともに東大を受験し、合格した。最後の旧制で法学部に進学したが、生活は苦しかった。
 家族は父の蔵書を古本屋に売ったりして生活していたが、奨学金制度を知って応募し、毎月2100円の奨学金を受けた。当時、昼食50円、授業料は月額300円だった。自宅からの通学で、何とかやりくりはできるようになった。さらに、日本ツーリストの添乗員のアルバイトや家庭教師などもやり、学費や図書の購入にあてた。
 そのうちに父は、映画会社『大映』の永田雅一社長の知遇を受けて、野球チーム「大映スターズ」の会長になった。
 1951(昭和26)年、父は公職追放が解除になり、選挙へ出馬すると言いはじめた。
 内務官僚出身で、いずれ政界進出をと、志していた父は、ここで出なければチャンスがないと言い張った。どうしても代議士になりたい。出身地から立候補したいと、山形村が入る長野4区からでることにした。
 長野4区は、当時1949(昭和24)年の総選挙で植原悦二郎氏、降旗徳弥氏、増田甲子七氏の3人が大臣経験者で当選しており、新人が入り込む余地がなかった。しかし、「やってみなければわからない」と、父は出馬した。1952(昭和27)年の総選挙で、すべてが初めてで、運動の方法もよく分からなかった。家族は当然ながら皆駆り出された。
 大学3年で、とにかく応援者の人たちと行動を共にした。初めて頭を下げて回ったが、この頭の下げ方も難しいことがわかった。
 選挙カーはトラック。荷台の所に檻(おり)のような枠を作って、まるでライオンが叫ぶように町行く人々にそこから手を振り、頭を下げた。が、落選した。