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3 軽井沢へ動員 空腹と目まい 親元へ一日脱走


武蔵高校時代(横浜・日吉の自宅で)
 越境入学するにはどこかへ寄留しなければならない。父も息子のためならばと考えた。松本中学時代の同級生で後に文化勲章を受章した鈴木雅次氏が校区に住んでいることが分かり、お願いした。こころよく受けてくださり、仮にそこへ転居したことにして、晴れて田園調布小学校へ転校した。
 あとでわかったことだが、そこの小学校には後輩に現総理の橋本龍太郎氏、俳優の石坂浩二氏が在籍していた。
 担任の絹笠峰士先生は、週末になると試験をし、月末になるとまとめの試験をする几帳面な先生だった。
 「試験を受ける方も大変だったけれど、採点をする先生も大変ではなかったかと思いますよ」
 現在もお元気で、米寿を迎えられた今も交流が続いている。選挙の時など自分のことのように心配してくださって、恩師の有り難さを感じている。
 越境入学したものの多摩川を越えての通学は、またまた大変だった。行って帰ってくるだけが、その日の仕事であった。
 無事に小学校を卒業すると、旧制武蔵高校尋常科へ入学した。中学校と高校が一つになっている7年制の私立の高等学校であった。入学するとほとんどの生徒は寮に入った。生徒の親は、転勤する人が多く、役人や外交官が大勢いた。
 1943(昭和18)年に入学し、当然ながら入寮した。
 1年目は6人部屋。先輩も同室で夜になると、その先輩の布団を敷かなければならない。上下関係に緊張したが、社会性を身に付ける良い機会にもなった。
 この時の室長は大鷹弘氏。後にビルマ大使となり、李香蘭さん(当時山口淑子)と結婚した人でもある。後輩の面倒見が良く、人柄の良い人だった。
 同級生には物理学者で俳人という元東大総長の有馬朗人氏、先輩には宮沢喜一元首相など、多くの学者や政治家がこの学校で育っている。
 中学3年になり、勤労動員で軽井沢へ行った。今まで何回も行ったことのある軽井沢だったが、主に陸軍気象部で働いた。仕事は主として午前中であったが、午後もジャガ芋作りなど畑仕事をした。
 毎日毎日天気図を書くようにいわれて書いた。
 「昔から天気は西から変わると言われたけれど、実際にやるとその通りでね。天気の法則を身を持って知ったね」
 しかし、何といっても食べ盛りの15歳だ。働いただけのエネルギーが供給されることなく、次のエネルギーを消耗するといった日常生活。とうとう栄養失調になって目まいがし、倒れた。少し休養してまた働くと目まいがするのだ。これではダメになると、脱走を思いついた。
 横浜の自宅には父母が住んでいた。弟や妹たちは父の出身地である山形村や梓川村に疎開していた。
 横浜の自宅に帰ると母の顔を見るなり、
 「軽井沢に行きたくない」と訴えた。すると母は「これもお国のためなのよ」と諭した。泣きながら再び軽井沢に戻ったのは翌日の夕方だった。