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2 公立へ転校 父の職を左右した激しい時代


豊島師範付属小2年の遠足で
  二、二六事件起きたのは1936(昭和11)年だ。その夜中のことを克明に記憶している。
 2月26日夜、父が警保局長の要職にあったことから連絡が入った。「賊が来るから、逃げなさい」と、後藤文夫内務大臣の秘書官の橋本清之助さんから電話がかかってきた。無論「賊」というのは、反乱を起こした青年陸軍将校たちのこと。
 当時、陸軍には統制派と皇道派があったのだが、皇道派は、政界や財界の腐敗を追求し、国家改造を狙っていた。いうなれば「昭和維新」なるものをめざしていた。
 事件の起きる前年の8月、彼らをおさえる統制派の陸軍軍務局長永田鉄山中将が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。
 この事件を憂い、父は「何か起きなければいいが」と案じていた。が、とうとう起きた。
 その夜、父はたまたま京都に出張しており、官舎が都内の大手町にあったことから、局長宅も襲撃の恐れがあるので逃げるように言われたのだ。
 母は「お前たちだけが逃げなさい。お母さんは残るから」と言った。
 タクシーで逃げることになった。伯母の住む青山に向かった。途中、車を止められ検問にあった。そのたびに銃剣をつきつけられ生きた心地がしなかった。無事に伯母の家に着いたときは、ただただ胸をなでおろした。
 父は急きょ帰京し、対策を練っていたようだが責任は免れようがなかった。「免職」になり、浪人生活を送ることに。当然官舎を出なければならなかった。
 千駄ケ谷の借家に住むことになった。
 小学校は豊島師範附属小学校へ入学。現在は存在しないが、そこの校長先生がユニークであった。成田千里先生といったが、「教練」という授業に対して「兵隊ごっこ」などと言って帝国陸軍のひんしゅくを買った。言われてみれば、「教練」というのは、軍事教育や軍事訓練の授業で子供たちが動けば、そのように解釈できたかもしれないが、当時の人々は、思っても口に出すことはなかった。
 やがて成田先生は大阪の方へ転校されたが、左遷されてしまったのかもしれない。ユーモアのある勇気のある教育者であった。
 1937(昭和12)年、7月7日には日中戦争(支那事変)が起こり、日本は中国を侵略。毎月7日には、全国の小学校で日の丸弁当を持参するように言われ、南京の陥落を聞くと提灯行列をしたものであった。
 1939(昭和14)年、父は浪人生活にピリオドを打った。時の総理大臣は、阿部信行陸軍大将。その折、内閣法制局長官に就任したのである。
 住居も横浜市の日吉に移った。日吉から池袋の豊島師範附属小まで通学したが、電車に毎日揺られていくうちに疲れきって学校では寝てばかりだった。これを聞いた母は、これではいけないと転校させることを決めた。
 小学校4年になり田園調布小学校へ。公立の小学校であったが、大変いい学校だからと、勧める人もあって、母はそこへ行くように手配した。
 越境入学であることは十分承知していた。