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1 泣き虫 幼児期 赤痢にかかり一命をとりとめ


上野動物園で象と遊ぶ(6歳ころ)
 やわらかな冬の陽ざしが、葉牡丹の渦に溶けてやさしい光を放っている。
 筑摩の自宅の玄関のまわりには、いつも季節ごとにスミレやチューリップが植えられているのだが、足をとめて花と語ることはほとんどなかった。96(平成8)年秋、政界を引退するまで少なくともそんな日々が続いた。
 冬の陽ざしがこんなにも穏やかで、やさしいことすら気がつかなかった。
 喧騒の東京と松本を行ったり来たりの生活は今も変わらないが、こうしてふるさと信州をゆっくりみつめる時はなかったように思う。
 足もとの花に語りかけ空を仰ぐ。
 もし父が長生きしてくれていたら、今日の自分があったかどうか−。
 いや今まで歩いてきた道は自分が選んだ道だ。
 父の影響は強く受けたが、父のせいでこの道を歩いたのではない−。
 父は山形村出身の唐沢俊樹。和歌山県知事や法務大臣などを歴任した元衆議院議員。母は清子。東京商工会議所副会頭の娘で一族は岐阜の出身だ。
 1930(昭和5)年、2人の間の二男として誕生した。長男が疫痢で亡くなったあとだけに、二男俊二郎の誕生は大きな喜びであった。父は、そのころ安達謙蔵内務大臣の秘書官として多忙な日々を送り、家族は霞ケ関の官舎に住んでいた。
 2歳になるかならないころ、4歳の姉が兄と同じ疫痢で亡くなり、そのあと自分も疫痢にかかって警察病院に運ばれ大騒ぎとなった。漢方医の渡辺道淑先生が万全を尽くし、一命をとりとめてくれた。
 それ以来、渡辺先生への信頼は篤く、主治医として永い間おつきあいが続いた。
 子供を亡くした親の悲しみは経験を持つ親しかわからない。母はいつも何かにつけ泣いていた。親せきは二人の子を亡くした母を「鬼ババ」などと言い、子供ながら悲しかった。
 そんな非難をはね返すように、とにかく子供を死なせてはならないと、大事に大事に母は私を育てた。
 「ナマモノはいけません。風邪をひくといけないので厚着をしなさい」 極端な言い方をすれば生きていければそれだけでいいというような育て方をされた。今から思えば過保護としか言いようがなかった。
 だが、父が和歌山県知事に赴任する際、子供は東京に置いていくことになった。31(昭和6)年、12月のことだったが、その時一歳半、よく泣く子であった。当時、知事は官選によって任命され、父は大きな使命感を持って赴任したのであろう。
 よく泣くので親せきからも預かるのを断られたが結局母方の親せきに預けられた。
 幼児期は、父が内務省土木局長になったこともあって、桜田門あたりの官舎に住んでいた。ちょうど警視庁の隣になるところだ。そのころは原っぱもあり、ヘビもはっていた。内務大臣官邸もすぐそばにあった。子供の目から見た官邸は、ものすごく広かった。なぜか幼稚園には行かず官邸の芝生や蛇のいる原っぱで、よく遊んだ。