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15 テレビ映画の時代 中国でも「赤い・・・」シリーズ


テレビ映画の撮影スナップ
(周防大島で)
   「今度、降旗君に撮ってもらうことになりました」
 「そうか。ところで降旗君は第一組合をやめたんだろうね」
 「わっはっはっはっ」
 私は撮影所長に言われた通り、笑うだけだった。
 「難しい映画はダメだよ、降旗君。娯楽なんだから」
 「わっはっはっはっ」
 実はその『非行少女…』の話がある前に、私はフランス映画でジャンリュック・コダール監督の『勝手にしやがれ』を観て大きな衝撃を受けていた。こんな素晴らしい監督がこの世に出て来て自分の出る幕はない、いつ辞めることになっても悔いはないと、思っていたところでの初監督の仕事だった。それだけに、実現しなくても悔いはなかったのである。私はコダールとは勝負にならなくとも、職業としての監督にはなれるだろうと、どこか開き直って仕事に就いた。
 監督第一作、第二作のあと、いろいろな話があったが、監督の名の上に「監修内田吐夢」などという冠がつくのを知ると、生意気にも「ご当人に撮ってもらえば」と、辞退したりしていた。
 それからしばらくは干されることとなった。
 時代劇映画の不人気で下降した東映に活を入れたのは、女優の富司純子(以前は藤純子)の父親俊藤浩滋さんだった。彼は後に任侠映画と呼ばれる“ヤクザもの”映画を主導したのである。
 「俊藤さんの映画を撮らなけりゃ、東映では監督は勤まらないよ」の声にせかされて、私も撮ることになった。昭和41年、安藤昇主演『ギャングの帝王』が手始めだった。
 独特な任侠道のために命を投げ出して闘う主人公…その姿に、国家権力に立ち向かう若者の活動が重なって共感を呼んだ。任侠映画はまさに時代とともにあったといえるのではなかろうか。
 しかし、そんな時代も長くは続かなかった。時代に波があるように、それに従って映画も変わっていく。会社も変わり、撮影所も変わっていく。
 俊藤さんは全盛が過ぎると、京都の撮影所へ撤退することになった。そして、東京の撮影所では地図の塗り替えが始まった。俊藤さんと共に仕事をした私の先はおのずから見えていた。
 東映との専属契約をやめてフリーになったのは、それから間もなくだった。
 私は劇場用の映画から遠ざかった。
 それから4年余り、私は山口百恵主演の『赤い運命』や『赤い疑惑』などの『赤い…』シリーズのテレビ映画を主に撮った。劇場用の映画にくらべて時間も金も三分の一以下という制約の中での撮影は大変だった。が、反響がすぐに分かり、やりがいがあった。山口百恵さんの素質も良かったと思う。
 後年、訪中した時、それらの映画は『血疑』という題で評判になっているのには驚いた。中国ではサービス皆無の公務員ウエートレスたちが、私が『血疑』の監督と知ると急にサービスが良くなった。
 何だか気恥ずかしかったが、正直なところうれしかった。