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14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い


「夜叉」のロケ風景
  スター主演映画を数多く監督した田坂具隆さんにもいろいろと教えていただいた。
 「君も東映で監督になろうと思っているのだったら、カット割りなんか考えなくてもいいよ。主演のスターが撮影に出て来なかったらどう撮るか、それだけ考えておくのね」
 東映スターシステムへの鋭いジョークだった。中村錦之助さんが、二日酔いで出て来れないと言うと、「君はこのシーンに必要ない」と切った話は聞いていた。また、有馬稲子さんが、先生役であったが、発熱のため休むと、「そう、結構よ」と自習時間にかえてそのシーンを撮ったのには、私もびっくりしてしまった。二日酔と先刻御存知だったのだ。私は映画の撮り方もさることながら、生き方を学んだように思う。
 昭和35年、60年安保闘争がきっかけとなり、東映でも組合運動が盛んになった。大川博社長は「君たちは映画を撮りに来たのか。それとも組合運動をやるために来たのか」と叫んだ。
 そのころ、黒沢明監督の『用心棒』『椿三十郎』の出現で、東映の時代劇は一挙に観客を減らしていた。いわゆるチャンバラは、あきられてしまったのである。
 「君たちは現実をよく知っているのかね。下の映画館を見て来なさい」
 本社の8階で大川社長と団体交渉をしていると、社長はそう言った。組合員の一人が見に行った。映画館にはほとんど観客がいなかったのである。
 住友銀行副頭取の叔父が「そろそろ身をかためなければなるまい。知り合いの娘さんにいい人がいるがどうかね」と言ってきたのは、昭和38年ころだった。撮影所でスタッフの女性や女優さんとの巡り合いがないわけではなかったが、結婚は全く考えていなかった。そんな状況の中で強引に紹介されたのは作家の村上元三さんの娘だった。
 私はお見合いをした。7歳下で典子といった。とても明るく、あははと笑った顔がとても良かった。この人なら共に肩を張らずに生きていけると思い、結婚した。私は28歳、典子は21歳だった。披露宴では、大川社長が私たちの正面に座ることになった。
 「降旗君、撮影所などやめて東映貿易に来なさい」
 どうやら組合が、会社の差し金で分裂したのに、私が第一組合で頑張っているのが気にさわっているらしかった。
 そうこうするうちに、トコロテン式に、「君に監督をしてもらいたい映画がある」ということになった。緑魔子主演の『非行少女ヨーコ』という映画だ。毎日新聞に掲載された実際にあった話の映画化である。はじめは先輩の佐藤純弥監督で進められた話だったが、別の映画を撮ることになり、私にまわってきたというわけだ。ところが第一組合を脱退しなければ監督にさせないという話である。
 「そんなばかな…。じゃあ撮らないよ」
 「まあ、そう言うな」
 その時の撮影所長は、「社長の前では何もしゃべるな。笑ってだけいろ」と言い、私は監督昇進のあいさつに部屋へ入った。