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13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明


テレビ映画「元禄太平記」を手がける
  映画づくりにはディレクター・システムとかプロデューサー・システムがあると言われているが、東映の映画づくりはスターシステムで、スターやその付き添いの母親のご機嫌を損ねては、映画づくりは困難だった。そのために会社側は私たちをスタッフからはずそうとしたのだ。
 だが、その時のスタッフは一致団結して反対した。私も入社一年足らずだったが、先頭にしゃしゃり出てまくし立てた。とにかく反対を通してしまった。製作課長が私を呼んで言った。
 「君のような者をスターさんの映画に付けとくと、こっちの首が危ない。これからはスターさんの映画には付けないよ」
 私はまあいいやと思った。そんなことより、徹夜続きで私の体はへとへとだった。
 私は那須の山奥へこもり、名も知らぬ温泉宿に一週間余り泊まった。湯船につかりながら考えてみると、どうも映画会社に入ってよかったのかどうか、自信がなくなってしまった。
 やめようかな…。そう思ったところで、ふと気が付いた。そういえば給料をもらっていなかった!
 会社へ行き、給料袋を受け取った。手取りは、基本給1万3800円プラス残業手当て6万円余。思いもしなかった高額。こんなにいただけるならば、もう少し我慢しようと私は居直った。それが運のツキだったのだろうか。
 東映の主力は時代劇スターの出演した京都撮影所での作品だった。私は製作課長の言葉通り、傍流の東京撮影所でもさらに脇のそえものの歌謡映画にまわされた。出来上がりも雑で、私は制作に携わっていても面白くなかった。やはりあの時辞めておけばよかったとしきりに思った。
 もっともマキノ光雄専務は、時代劇ばかりではなく、東宝とレッドパージになった今井正監督を呼んで『ひめゆりの塔』を作り、一世を風靡(ふうび)して「ワシは日本共産党ならぬ日本映画党だ」と意気軒高だった。やはりレッドパージで、独立プロ活動をしていた家城(いえき)己代治監督を東映に招いたのも彼である。スターの出ない青春映画『裸の太陽』を家城監督で撮ることになり、私は助監督となった。作品は江原真二郎や中原ひとみ、丘さとみらが出演するもので、撮影は宮島義勇カメラマンが担当した。その宮島さんは昭和23年の東宝ストライキで「宮天」、つまり宮島天皇と勇名をはせていた。
 ロケーションは福島県郡山市で行ったが、宮島さんは宿の角火鉢を囲んで、毎晩反省会を開いていた。そこへ必ず私も呼ばれ、まず全員のグラスを焼酎(しょうちゅう)で満たした。それから宮島さんは話し始めた。
 「いいか、映画はただ撮ればよいというものではない。何を撮るかなんだ。わかったか!わかったら乾杯!」
 全員が飲みほさなければならない。それが夜中過ぎまで続く。私はそっと焼酎を火鉢に捨ててコップを差し出した。そのうち、火鉢の下から黒い液体がしみ出てきて、もうどうすることもできない。ふらふらになって翌朝は現場へ。宮島さんは何もなかったように凜としてカメラを回している。
 毎晩このようにして宮島さんと話しているうちに私は希望が戻ってくるのを感じた。もう少し頑張ってみようと思った。宮島さんは、映画のつくり方、手抜きなしのつくり方を体系的に示してくれたのだ。その宮島さんは2月21日に亡くなられた。もし宮島さんに会っていなかったら、今日の私は無いかもしれない。心からごめい福をお祈りする。