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12 進行係の助監督 「仕事は自分の責任で―」の世界


「真っ赤な度胸花」の北海道ロケ
(1969年・中央本人)
 東映での最初の仕事は進行係だった。なんでも覚えるためということである。まず、私はロケ費と2、3人のスタッフをロケ地の東北の漁港まで届けることになった。そのスタッフの古手が言った。
 「東京としばらく離れる時は、吉原遊郭で遊んでから行くもんだ。お金はロケ費から出しな」
 そういうものかと我々は吉原に向かった。そして又、古手が言った。
 「おばちゃん、この坊やに領収書を書いてやって!」
 吉原で領収書とは。私はびっくりした。
 そんな一件があってロケ地から帰京するやいなや私に助監督の命が下った。金を扱う仕事はさせられないというわけである。理由はさておき、まじめにやっていた同期は怒った。
 「どうしてあいつだけ先に助監督になるんだ!」@改行 とうとうその日のうちに会社を辞めてしまったのである。
 父が松本市長選に出馬し、当選したのは昭和32年4月だ。この時も私は何も手伝わなかった。市長になった後は、私も就職してなお一層家に帰る機会が少なくなった。
 映画会社に入るまでは、実のところ映画がどのように作られるか全く知らなかった。助監督といっても、だれかが教えてくれるわけではない。最初に渡されたものはカチンコだ。拍子木をV字型に組んだものである。
 「これをどうすればいいの」
 「そりゃ、たたきゃいいんだ。カメラの前でね」
 とは言え、いつ、どんな時に…自分で見て覚えるしかなかった。また、撮影は始まると時間に関係なく、予定を終わるまで続く。そこでもし私が現場を離れたとしても、だれも何も言う者はいない。自分がいなくても撮影は進み、どうってことはないのだ。
 しかし、何か発言するとなると、最初からかかわっていないと、皆は耳を傾けてくれない。あの人がやれと言ったからやるのではなく、自分の責任で仕事をやっていくのが映画づくりの世界であった。
 東京撮影所では、美空ひばりの歌の映画化が盛んに行われた。「港町十三番地」の歌の入った『青い海原』が、私が初めて助監督になった映画である。
 美空ひばりは、ご存じのように母親の喜美枝さんが、いつも付き添っていた。
 「ひばりさん、時間ですよ」
 助監督の私が呼びにいく役目だった。すると母親が私のそばへ寄ってきて言った。
 「お兄さん、オジョウと呼んでやって!」
 「オジョウ?」
 それが「お嬢」ということはやがて分かりはしたものの、なかなか口からなめらかには出なかった。
 「今度の新入りは生意気ね!」
 ある時、進行係がセット入りの放送をする前に、ひばりちゃんのお母さんに気付かずつぶやいた。
 「さあ、鶏を小屋に追い込むか」
 これはフィルムを卵に見立てた私たちのふだんのジョークである。しかし、お母さんは烈火のごとく怒った。
 ひばりもトリだったのだ。
 さらには録音の助手が徹夜に疲れて居眠りをしてしまい、ひばりの鼻先にマイクを落としてしまった。
 「録音技師からなにから替えなさい!それにあの進行、新入り…」
 会社は母親の言う通りにしようとした。