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11 東映に入社 叔父のお陰 東京撮影所に配属


「裸の太陽」の撮影現場で(右端本人)
 「コンパ100円」
 駒場寮でこんな看板が出る日があった。それは運動場へ迷い込んだ野犬や飼い犬を掌捕しての「すき焼きパーティー」の合図だ。今ではとても考えられないことだが、たとえ犬の肉であっても、学生にとっては素晴らしい栄養源になっていたことも確かだった。
 私は教養課程の2年間、フランス語既習クラスへ入った。全部で20人ほどだが、浪人しないで入った者は私ともう一人、あとはさまざまな年代の人がいたが、私たちは意気投合しいまだにクラス会が続いている。
 大学3年になると専門分野に分かれ、私はフランス文学を専攻した。当時はカミュやサルトルなどに人気があり、私もその波に乗ったわけだ。
 大学4年になり、もう一年フランス文学をまじめにやり、大学院にも進学しようかと思った。しかし、研究室に出入りしているうちに、どうも私の肌に合わないと思うようになり、就職することにした。
 だが、当時は就職難の時代。学校の求人板を見ると、給料は出版社の有斐閣が一位、二位は映画会社の東宝と東映。岩波書店や朝日新聞はそれよりやや下だった。
 就職するとなると、相談するのは父の弟の英弥叔父さんだ。そのころ叔父は住友銀行の副頭取だった。
 「映画会社のどこかご存じないですか」
 「東映は住友がメーンバンクになっている。東宝は黒沢明氏を川奈のゴルフクラブに紹介したばかりだ。東映も東宝もどちらも口をきけるよ。だが、経営内容は東映の方がいいようだ」
 と、銀行屋らしくつけ加えた。そこで東映の入社試験を受けることにしたが、他愛ない問題を見て私はペンを放り出した。面接では錦之助と橋蔵を取り違えたり、望みは全くなかった。やはりフランス文学かと、思っているところへ身体検査の呼び出しが来た。行ってみると病院には3人しかいない。一人は興行主の息子、一人は宣伝部長の息子だ。
 「なんだ、みんな裏口だな」
 結局、叔父のお陰で東映への入社が決まり、私は演出の仕事を希望した。早速、人事部長に呼ばれ配属が言い渡された。
 「東映の主力撮影所は京都だから、君はそちらへ行きなさい」
 東映の時代劇映画は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 「え?それはできません。僕はチョンマゲは嫌いです。現代劇でなければできません」
 裏口入社で勝手を言い放題とは!人事部長の顔にはそう書かれていた。しかし結局、昭和32年4月、大学を卒業すると同時に東京の撮影所に配属された。
 東京は、京都の撮影所に比べて規模は半分、格付けは四分の一くらいだったか。
 しかし、そこでは社会派といわれる今井正、関川秀雄監督が仕事をしていた。